サンフレッチェ広島の詳細情報

正式名称サンフレッチェ広島
所属リーグJ1
国・ホームタウンアジア 日本 広島 広島市
サポーター数サポーター: 397
コミュニティ登録者:147
ホームスタジアムエディオンスタジアム広島Coca-Cola West 広島スタジアム

最新の試合結果

Jリーグチャンピオンシップ 決勝 第2戦
2015/12/05(土) 19:30

次の試合予定

次の試合予定が登録されていません。

サンフレッチェ広島の詳細情報・プロフィール

競技サッカー
ニックネーム、通称
ホームスタジアムエディオンスタジアム広島 ,  Coca-Cola West 広島スタジアム
法人名・運営母体株式会社 サンフレッチェ広島
代表者本谷祐一
住所広島県広島市西区観音新町4-10-2 万博記念公園スポーツ広場内
電話番号・FAXTEL: 082-233-3233
FAX: 082-233-3251
公式ホームページhttp://www.sanfrecce.co.jp/
クラブカラー
ユニフォーム(第1)紫、紫紺、紫紺(第2)白/グレー、グレー、白
マスコットサンチェ、フレッチェ(サンチェくんの彼女)
設立年月日
サンフレッチェ広島の応援歌を見る報告

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クラブの概要・歴史

概要

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。チームカラーは、紫(青紫)ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。 ホームタウンは広島県広島市。前身は東洋工業サッカー部(その後マツダサッカークラブ)。

当初マツダが筆頭株主であったが、2007年に第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となっている。

練習やサテライトリーグは安芸高田市の吉田サッカー公園が主に使用されている。試合前や天候などの理由により、ビッグアーチやその隣の広島広域公園補助競技場なども利用している。

歴史

1938年に創部された前身の東洋工業は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1982年、今西和男がサッカー部総監督に就任、のちにチームに多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。

低迷の原因が地方のハンディによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを設立し、中国社会人リーグに参戦。若手に実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた。ここで確立された育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

またこの時期に、既に動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた。


1990年、プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請された。当初、マツダは財政的理由から降りようとしたものの、野村尊敬広島県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者、市民の運動により、1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・デオデオ・中国電力・広島銀行等59 団体の出資により「サンフレッチェ広島」を設立。上記のようにマツダだけでは財政的に支えきれそうになかったため、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。その当時、オリジナル10のほとんどが親会社100%出資でチームを設立していたため、この官民の出資による設立はJリーグの方向性を示したと言える。


1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェック、パベル・チェルニー、盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強であった。フジタから高木琢也、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位と不甲斐ない成績を残してしまったが、徐々に戦術が浸透すると高木・前川など日本代表クラスや、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活き活きと活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏・佐藤康之・柳本啓成・森山佳郎と、どれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。

しかし同年ニコスシリーズになると、組織的でオートメーション化したパスサッカーが、逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。

その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなった。


チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任する。 ジョン・ファンルーン、ピーター・ハウストラ、サントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。

しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手たちはこれについていけず、柳本や風間などは公然と監督批判、さらには主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。 1995年シーズン終了後、システムについていけないベテラン選手を次々と放出。風間にいたっては「選手として何一つ得る物が無い1年だった」とはき捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して観客動員低下につながって行った。

ヤンセンは上村健一をレギュラー起用し、それまで出場機会に恵まれなかった桑原裕義を初めとする若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。また後にエースとなる久保竜彦を高卒2年目となる1996年から積極的に起用している。

リーグでは結局不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。


Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年、バルセロナオリンピックで名を上げ、若手育成に定評があったスコットランド人エディ・トムソンが就任する。同年末、経営難はピークに達し、クラブ側は選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍放出する方向になってしまった。そして1998年には高木をヴェルディ川崎へ、路木を横浜マリノス、森保を京都パープルサンガ(レンタル移籍)、翌1999年には柳本をガンバ大阪へと主力選手を次々と放出。クラブは最初の試練を迎えた。

[ アビスパ福岡]から[ 藤本主税]、[ 柏レイソル]から沢田謙太郎、他チームで構想外となっていた伊藤哲也、宮澤浩、吉田康弘、山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦、下田崇、服部公太、高橋泰らの若手を起用していった。 また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルド、アウレリオ・ヴィドマー、トニー・ポポヴィッチ、ハイデン・フォックス、スティーブ・コリカと優秀な外国人選手も次々と補強した。

医療体制が整っていなかったため怪我人が出てもなかなか復帰せず、また財政難からまともに戦力が整わなかったため、トムソン就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開、当時清水エスパルス監督であったオズワルド・アルディレスから「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ」と言われるほどであった。

就任3年目の1999年に至ってトムソンのサッカーも熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強とも言われた3バック、代表にまで昇りつめた藤本、そして何よりも新たなるエース久保の覚醒によって、堅守速攻のカウンターサッカーを武器に次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。 翌2000年、更なる上位進出を目指したが、リアクションサッカーからの脱却ができず、肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた。しかし森崎和幸が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。


4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシア人ヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘した。

センターフォワードタイプの選手を2人以上並べる3トップを採用し、超攻撃戦術への大転換を図った。久保・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。

残留に向けオレグ・パシニンとセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一森崎和幸浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。

ところがこの年のオフ、ヴァレリーは夫人の病気(後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示されたCリーグのクラブの監督に就任するための狂言と判明)によってわずか1年で辞任する。この際、ヴァレリーが新監督に推薦したロシア人ガジ・ガジエフを、クラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。


2002年、新監督のガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを構想外にし、更にキャンプでも選手たちの心を全く掴むことが出来ずチームはバラバラのまま、また更にキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪の状況でシーズンに突入した。チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ガジエフのテストに合格したミロ、上村の開幕直前の怪我で急遽獲得したビロングの新外国人も軒並み期待はずれに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにも荷が重く、消極的な采配に終始、毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷した。また頼みの綱の久保と藤本も怪我による低調なパフォーマンスに終始し、鳴尾直軌・井手口純をレンタルで獲得するも、これも期待はずれに終わってしまう。同年9月には長年日本代表でコーチを務めていた小野剛をコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になるが、結局最終節のコンサドーレ札幌戦に敗れたことで、オリジナル10としては浦和レッドダイヤモンズに続いて2クラブ目、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJ2降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任。後任にはヘッドコーチの小野が監督に昇格し、会見の場で「1年目にはJ1復帰、2年目にはJ1残留、3年目にはJ1で優勝争い」と言う『3ヵ年計画』を発表した。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し、天皇杯を3連勝。準決勝で京都パープルサンガに敗れたものの、その戦いぶりは来期への明るい展望を抱かせるのに充分な内容だった。


2003年、小野剛監督のもと、クラブは1年でのJ1復帰に向けて尽力する。予想された主力の流出は久保と藤本の二人にとどめ、一方でセザール・サンパイオ(前柏レイソル)、リカルド(前ベガルタ仙台)などを獲得し、J2で戦うための戦力を充実させた。

こうして迎えたシーズンは、1stレグ11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしのJ2記録を樹立(無敗記録はその後更新された)、序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、残り1試合を残して2位以内が確定し、1年でJ1返り咲きを決める。ちなみに、J2優勝・アルビレックス新潟に2勝1敗1分け、3位・川崎フロンターレに2敗2分け、4位のアビスパ福岡に前半戦2勝・後半戦2敗したことが、新潟・川崎との厳しい昇格争いとなる原因となった(最終的には、勝ち点差が1位から3位までわずか3だった)。

J1復帰後、上村健一・桑原裕義・高橋泰などのチームを支えてきた選手を次々に放出する一方で、DF小村徳男・吉田恵などベテラン、新外国人FWチアゴを補強。堅守を武器に健闘したが、頼みの助っ人のチアゴは怪我で離脱するなど、得点力の低さから勝ちきれない試合が重なり、結果13引き分けと、年間最多引き分け記録を作ってしまった。また、高校生年代の選手である前田俊介・高柳一誠・森脇良太の他に高萩洋次郎などがトップで起用され、将来を見据えた。

この反省から2005年、クラブは更に積極的な補強に動く。前年途中に獲得した盛田剛平、ベットに加え、佐藤寿人、池田昇平、茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョ、ガウボンといった有力な外国人選手を次々と獲得。これらの新戦力と、新キャプテンに就任した森崎和、ユースから入団した前田を始めとする生え抜きの選手たちが融合し、チームは快進撃を続け、一時は2位にまで浮上した。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン勢の守備陣は鉄壁で、前半戦を終えた時点でどの試合も0分 ~45分の間は無失点という驚くべき記録を残した。小野が掲げた3年でJ1優勝も現実味を帯びる展開まで持ち込んだが、下田の怪我による長期離脱もあいまって終盤に息切れ、下位に甘んじていた浦和レッズと[[セレッソ大阪]]が猛追してきたこともあり、最終的には7位でシーズンを終えた。

また駒野が東アジア選手権から代表に定着、そして佐藤寿もシーズン終了後に日本代表に選出されるなど、充実のシーズンとなった。特に佐藤寿の活躍には目を見張るものがあり、久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取るほどの活躍を見せJ1日本人得点王にも輝いている。


2006年シーズンは、昨年足りなかった部分を補強する目的で、FWウェズレイ(元名古屋グランパスエイト)やMF戸田和幸、FW上野優作らのベテランを期限付き移籍で獲得。ダークホース的な存在に挙げる評論家も多かった。これにより更なる上位進出を狙ったが、より高レベルのサッカーを目指して導入した新システムが全く機能せず、開幕から自慢であったはずの守備が崩壊し、実に開幕から10戦未勝利(クラブワースト記録)と低迷。第8節終了後、小野は低迷の責任を取って辞任した。

後任には、GKコーチの望月一頼が、ワールドカップによる中断期間までの暫定で就任した。望月は、前回降格した2002年の反省や、更に中断までのリーグ4試合の間に出来るだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択し、攻撃は佐藤寿の決定力に賭けた。この戦術をリーグ戦だけではなく、グループリーグ敗退が決定していたナビスコカップでも行ったため、一部のサポーターのみならず一部選手から批判を声が上がった。しかしこのサッカーを終始貫き、残留争いに優位に立てることとなるリーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリア人ミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。

ペトロヴィッチは世代別代表にも名を連ねる青山敏弘柏木陽介など若手を積極的に起用。さらに本来はボランチを本職とする戸田和幸・森崎和幸の2 人をセンターバックで起用するようになる。そして、この時期からウェズレイが次第にチームにフィットしたこともあり、攻撃の中心となる活躍を見せる。結果的に監督交代が功を奏した形で、31節で来季のJ1残留を決定し、混戦だったシーズンを最終的には10位で終了。2トップの佐藤寿が日本人得点王の18 点、ウェズレイが16得点を挙げるなどチーム総得点50のうち7割を二人でたたき出した。長年、チームの課題だったFWの得点力不足が改善された成果とは言えるが、逆にFW以外の選手による得点が少なかったことは今後の課題ともいえる。また控え選手の層が薄かったこともあって、中盤から後半戦にかけてはメンバーが固定されていた。それ自体は悪く無いのだが、怪我や代表戦などでチームを離れざるを得ない選手が出た場合に選手層が薄くなってしまう事もあった。

2006年のドイツW杯本大会には、佐藤寿が落選したものの、駒野が日本代表メンバーに選出された。サンフレッチェからW杯本大会の日本代表メンバーが選出されたのは駒野が初めてである。その後も、この2人はオシムジャパンに召集された。


他クラブが移籍市場を賑わわせるなか、補強はユース所属の平繁龍一・遊佐克美2人のトップ昇格と愛媛FCにレンタル移籍していた高萩洋次郎・田村祐基が復帰するのみの補強に終わり、昨年の若手育成路線が完全に継続される形となった。そんな中でも昨年はレンタル移籍だった戸田和幸・上野優作がそれぞれの所属元から完全移籍となり、ウェズレイも契約を1年延長した。メンバーに大きな変更は無いものの最低限のメンバーを整えたと言える。ただし、経営のほうは、監督交代などが響き、2年連続で赤字となった。ただ戦力は確実に成長しており、事実、現行ルールで決勝トーナメントへ進んだ事のなかったナビスコカップで初の決勝トーナメント進出を果たした。育成面では上々の成果をもたらし、年代別代表選手をのべ7人抱えるまでとなったが、ペトロヴィッチ監督の標榜するサッカーは共通理解をベースとした連携重視の全員サッカーであるために、主力全員で練習することが少なくなっているためか、リーグ戦で結果が出せていないという弊害も生まれつつある。さらに、序盤は恐れられていたウェズレイ・佐藤寿人の2トップも後半戦から他チームに攻略され始め、中断明けから得点力が低下したことや、今回の補強の少なさから、計算できるDFがあまりおらず、他ポジションからコンバートした選手(元々盛田はFW、森崎和幸はMFの選手である)を使用したため、J1ワーストの71失点と守備も崩壊。途中、千葉からストヤノフの加入や、若手の槙野の起用でこの事は解消されたものの、得点力の低下は止められず、下位に低迷してしまう。結局2007年9月1日に挙げた横浜FCからの勝利以降10戦勝ちがなくクラブ史上初めてJ2との入れ替え戦に出場することが決定した。入れ替え戦では京都サンガF.C.と対戦したが、第1戦は1-2で敗戦、第2戦はスコアレスドローに終わった。この結果、2戦合計1-2で敗れJ2降格が決定した。なお、オリジナル10としては最多、タイトル獲得経験のあるクラブとしては京都の3度に続く2度目の降格となった。 降格後、FWウェズレイは天皇杯を待たずにブラジルに帰国し、そのまま退団となった。

その年の天皇杯では、これまでの不調が嘘のような快進撃を見せ2000年以来の8年ぶりの決勝へ進出したものの、鹿島アントラーズとの決勝戦において0-2で敗れ、タイトル獲得とはならなかった。しかし、その2ヶ月後に行われたゼロックス・スーパーカップで再びアントラーズと対戦し、2点ビハインドから同点に追い付く粘り強さを見せ、PK戦の末に勝利を収めて見事リベンジを果たした。これにより、Jリーグ発足以降としては1994年のサントリーシリーズ優勝以来チーム2度目の「日本一」の称号を手にするとともに大会初のJ2クラブによる優勝を成し遂げた。

チーム名の由来

チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語で矢を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。


獲得タイトル

国内タイトル

・1stステージ優勝  1994年

・ゼロックス・スーパーカップ  2008年


Jリーグフェアプレイ特別賞 1993年、1994年

海外タイトル

個人タイトル

ベストイレブン

・高木琢也  1994年

・佐藤寿人  2005年


新人王

森崎和幸  2000年


フェアプレイ個人賞

・下田崇  2004年

・佐藤寿人  2007年

スポンサー

胸 デオデオ(DeODEO)

袖 カルビー(Calbee)

背番号 ライフカード(Life CARD)

パンツ エディオン(edion)

マスコット

中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君」と「フレッチェちゃん」。