セレッソ大阪の詳細情報

正式名称セレッソ大阪
所属リーグJ2
国・ホームタウンアジア 日本 大阪 大阪市
サポーター数サポーター: 319
コミュニティ登録者:162
ホームスタジアムキンチョウスタジアムヤンマースタジアム長居

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セレッソ大阪の詳細情報・プロフィール

競技サッカー
ニックネーム、通称
ホームスタジアムキンチョウスタジアム ,  ヤンマースタジアム長居
法人名・運営母体大阪サッカークラブ株式会社
代表者藤田信良
住所大阪市東住吉区長居公園1-1
電話番号・FAXTEL: 06-6692-9011
FAX: 06-6698-8581
公式ホームページhttp://www.cerezo.co.jp/
クラブカラーピンク
ユニフォーム(第1)ピンク/紺、紺、紺(第2)白、白、白
マスコットロビー
設立年月日
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クラブの概要・歴史

概要

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。新聞などの略記では、C大阪・セ大阪と記される(大阪を冠したJリーグクラブに「ガンバ大阪」が存在するため。こちらはG大阪・ガ大阪と略記される)。 ホームタウンは大阪府大阪市。ホームスタジアムは長居スタジアムと隣接する長居球技場。練習は南津守さくら公園スポーツ広場、堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンター、尼崎市ヤンマーグラウンドが使用される。普段は南津守さくら公園スポーツ広場が練習やサテライトリーグで使用される。

歴史

前身はヤンマーディーゼルサッカー部。1957年に創部し、JSLの創設とともに関西代表として参加した名門。JSL時代には、釜本邦茂やネルソン吉村らを擁したチームはリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回を獲得し関西の雄として輝いた。


1993年、ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪を立ち上げる。

12月6日、 大阪・中之島のリーガロイヤルホテルにてヤンマーディーゼル・日本ハム・カプコンなどの共同出資による新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「セレッソ大阪」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった鬼武健二が就任。


1994年、早期Jリーグ昇格を見据え選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオをセレッソ大阪初代監督として迎える。JFLで優勝。天皇杯ではJFL所属ながらも当時のJリーグ王者であったヴェルディ川崎を破る大番狂わせを演じたほか、浦和レッズ、横浜マリノスらJリーグ勢を次々と破り決勝進出。タイトルを狙うもベルマーレ平塚に 0-2 で敗れ準優勝に終った。1995年からJリーグ昇格。

当時のメインスタジアムは長居スタジアムに隣接した長居第2競技場だった。これは長居スタジアムが1997年の国民体育大会(なみはや国体)開催に伴う全面改修工事を行ったため。しかし、Jリーグの開催基準に適合しないため、1994年夏季から改修工事を施し、この年の後半戦にバックスタンドを座席に変更。1995年の開幕時にナイター照明塔と電光掲示板を設置し改修を完了させている

3月8日、神戸市立中央球技場(現・御崎公園球技場)にウルグアイの名門ペニャロールを迎えてセレッソ大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。

10月20日、最終節前、台風の影響で延期になっていた藤枝(現・アビスパ福岡)との試合を尼崎市記念公園陸上競技場にて戦う。セレッソはこの試合前時点で単独首位。勝てばJリーグ昇格圏の2位以内はほぼ確定だったが、同時に負ければ自力昇格を失う試合でもあった。試合は90分をスコアレスドローで終える緊張感高まる展開になったが延長後半12分、見崎充洋による決勝ゴールで事実上のJリーグ昇格が決まった。

10月23日、JFLの最終節、コスモ石油四日市戦を勝利し柏レイソルを抑えてJFL優勝。Jリーグ昇格に花を添える。


1995年、Jリーグ加盟。

森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。


1996年、 成績不振によりエミリオが監督が辞任。後任はコーチだった楚輪博が監督に昇格。

7月3日、ナビスコカップのアビスパ福岡戦で8得点。チーム最多得点記録。

7月27日、長居スタジアムが改修終了。それにともないセレッソ大阪のホームスタジアムも長居第2競技場から長居スタジアムへと変更。こけら落しとしてブラジルの名門ボタフォゴを招き国際親善試合を行う。結果は 1-3 でセレッソの敗戦。

5月11日から10月2日の間のリーグ戦で5ヶ月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録。


1997年、監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。


1998年 、松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では 34試合中 13試合が 3失点以上という異様な失点のシーズンとなった。韓国代表選手の黄善洪が入団。

4月15日、長居でのジュビロ磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録。

8月8日、長居での柏レイソル戦で 5-7 の敗戦。試合あたりのJリーグ最多得点記録。


1999年、レネ・デザイェレが監督に就任。

5月8日、対名古屋グランパスエイト戦は、長居スタジアム・長居第2陸上競技場ともに「国際グランプリ陸上・大阪大会」に使用する関係で使えず、会場を近鉄花園ラグビー場に変えて行った。これには当時関西にJリーグの公式戦基準のサッカー専用グラウンドがなかった(神戸中央球技場が改修工事中だった)ことから、関西のファンに球技専用グラウンドでサッカーを楽しんでもらいたいという趣旨があるといわれている。

黄善洪がJリーグの得点王とベストイレブンを獲得。

12月、 天皇杯を前にレネ監督が辞任。辞任の理由はレネ監督のプライベートなトラブルといわれている。後任は戦術面を担当していた副島コーチが監督代行としてチームを指揮。


2000年、前年に監督代行として天皇杯の指揮をとった副島博志が監督に就任。

1月29日、大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の鬼武健二から藤井純一に交代。鬼武健二は会長に就任。

1月31日、バイエルン・ミュンヘンと3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和レッズと業務提携を結ぶ。

3月30日、大阪市議会において大阪市によるセレッソ大阪への1千万円の出資が承認。

5月27日、西澤明訓と森島寛晃の軸を中心に西谷正也と盧廷潤の強力なサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝というところまでいきながら最終戦で川崎フロンターレにVゴールで敗れステージ優勝を横浜F・マリノスにさらわれる。1stステージの成績は2位に終わった。

森島寛晃と西澤明訓がJリーグのベストイレブンを獲得。シーズン終了後、西澤がスペインリーグのRCDエスパニョールへ移籍。


2001年、1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格した。天皇杯で二度目の決勝進出も清水エスパルスに延長の末2で敗れ、またもや準優勝に終わる。

7月27日、 強化担当だった大西忠生副社長が成績不振を理由に辞任退職。

8月20日、 監督の副島博志が成績不振を理由に辞任。後任はジョアン・カルロスが就任。

11月3日、 対FC東京戦の敗戦によりJ2降格が決定。監督のジョアン・カルロスがこれを受けて辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。 しかし、J2降格が決定してから天皇杯の決勝に進出するまでは7連勝であった(この中には天皇杯の準々決勝でこの年のJリーグ王者であった鹿島アントラーズを下した試合もあった)。


2002年、 J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮がまったく行われず、森島寛晃・西澤明訓・尹晶煥ら各国の代表選手不在という苦しいチーム編成で日程をこなす事となった。ただし代表選手不在により大久保嘉人の出場機会が増え、彼の大きな成長を促すシーズンともなった。

2月25日、未明に大阪ミナミで眞中靖夫が暴漢に襲われ頭蓋骨前頭部にひびの入る重症を負う。

3月21日、 昼間に長居第2競技場でJ2のセレッソ大阪と川崎フロンターレとの試合が行われたが、夜には隣接する長居スタジアムで日本代表とウクライナ代表との試合が行われたため、セレッソとしては選手・ホームスタジアム・関心など全て日本代表に奪い取られる最悪の日程となった。

11月16日、 最終節の一つ手前の43節でJ1昇格を争い、そのシーズンで一度もセレッソが勝てなかったアルビレックス新潟との直接対決。1994年Jリーグ昇格の藤枝戦と同じく勝てばJ1昇格が決定だが負ければ自力昇格が無くなる試合にセレッソが3-0と勝利しJ1昇格を決めた。


2003年、1stステージは健闘。しかし、2ndステージに入ると勝てなくなり、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村昭宏監督はシーズン途中で解任となった。そしてここから監督交替のオンパレードとなる(詳しくは「歴代監督」の項を参照のこと)。また三度目の天皇杯決勝進出となるも、ジュビロ磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝に終わる。


2004年、1stステージは相次ぐ監督交替もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分トリニータで監督を務めた小林伸二が監督に就任し、西村から数えてわずか9ヶ月ほどで6人が監督を務める異常事態となった。そんな中、一丸となったチームは12位で終え、年間順位でも最終節で柏レイソルを逆転し15位となんとか残留に成功した。シーズン終了後、大久保嘉人がRCDマヨルカにレンタル移籍。


2005年、前年度までの脆弱な守備力の強化と、大久保嘉人の海外移籍に伴う攻撃力の低下を補うべく即戦力主体の積極的な補強を実施、GKにガンバ大阪から吉田宗弘を完全移籍で獲得、DFには2003年のユニバーシアード大邱大会優勝メンバーの江添建次郎を7クラブに及ぶ争奪戦の末に獲得に成功、テスト生出身の前田和哉も入団した。FWには京都パープルサンガのエース[/player/黒部光無敗最長記録となる16試合負け知らずという好調ぶりだった。天皇杯も含めれば、準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。また、この年は優勝争いをしたこともあり、過去最高の1試合あたり17,648人の平均観客動員数を集めた。


2006年、昨年の快進撃を受け、優勝を目標にしていたが、開幕4節すべて3失点以上で負けるなど出だしでつまづいた。 8節終了後、1勝6敗1へ)、名波浩(レンタル復帰後、東京ヴェルディ1969へ)、下村東美(ジェフユナイテッド市原・千葉へ)、ブルーノ・クアドロス(退団後、コンサドーレ札幌へ)と攻守の軸となっていたベテラン選手達が次々と退団し、戦力の大幅低下は否めない状態となった。


2007年、ヤンマーサッカー部発足以来50周年という節目の年をJ2で過ごす事になる。前年の主力が抜けた穴を埋めるべく、東京京ヴェルディ1969と湘南ベルマーレには1分け3敗)ことが最後まで響き、第51節の水戸ホーリーホック戦で0-1で敗れたため1年での昇格の可能性を失った。それでも、第4クールは6勝4分け2敗のリーグ2位の成績を残した。

本シーズンは追撃が今一歩及ばず昇格を逃したものの、FWに抜擢されて12ゴールを挙げた小松塁をはじめ、前田和哉、江添建次郎、濱田武の若手から中堅に差しかかる世代が計算できる戦力に成長したほか、香川真司・森島康仁・柿谷曜一朗が各世代の代表選手に選出されてそれぞれのランクの国際大会で活躍、実力の片鱗を現した。しかし、国際大会で活躍した森島(康)や柿谷クラスの選手でも簡単にレギュラーの座を獲得できないなど、チーム内競争も激しさを増した。 集客に工夫を凝らしたが、J2降格の影響もからんで、1試合あたりの観客動員数も過去最低の6,627人にとどまった。ちなみに1試合あたりの観客動員数で過去最高を記録したのは2005年の17,648人であったことから、この2年間でおよそ4割に減少したことになる。

シーズンオフは戦力の流出が懸念されたが、主力では吉田宗弘がアビスパ福岡に完全移籍、苔口卓也ジェフユナイテッド千葉・市原にレンタル移籍したものの、香川真司・森島康仁・柿谷曜一朗らの若手をはこもじめ、去就が注目されていた古橋達弥も残留した。補強の面ではGKに川崎フロンターレから相澤貴志をレンタル移籍で獲得、退団したゼ・カルロスの後任となる左SBに湘南ベルマーレから尾亦弘友希を完全移籍で獲得、FWにカレカをレンタル移籍で獲得して、戦力駒野上げを図った。今シーズンは新キャプテンに前田和哉を任命、若手の香川真司・小松塁らがさらに成長し、中堅・主力とともに巻き返しを図る。

チーム名の由来

「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語で桜の意味。桜は大阪市の花でもある。 CEREZOのロゴのOの中抜きが桜の花びらになっている。

獲得タイトル

国内タイトル

旧JFL優勝  1994年

個人タイトル

ベストイレブン

森島寛晃  1995年

黄善洪  1999年

森島寛晃、西澤明訓  2000年

吉田宗弘、古橋達弥  2005年


Jリーグ得点王

黄善洪   1999年

田中達也 2009年(J2)

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サプライヤー ミズノ(MIZUNO)

胸  ヤンマー(YANMAR)

袖  大阪メトロサービス(OSAKA PiTaPa)

背番号  日本ハム(NIPPON HAM)

パンツ  アルペン(SPORTS DEPO)

マスコット

マスコットは狼で愛称はロビー。ロビーの本名はノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ。高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家の"オオカミの息子"という意味。