川崎フロンターレの詳細情報

正式名称川崎フロンターレ
所属リーグJ1
国・ホームタウンアジア 日本 神奈川 川崎市
サポーター数サポーター: 822
コミュニティ登録者:311
ホームスタジアム等々力陸上競技場

最新の試合結果

次の試合予定

次の試合予定が登録されていません。

川崎フロンターレの詳細情報・プロフィール

競技サッカー
ニックネーム、通称
ホームスタジアム等々力陸上競技場
法人名・運営母体株式会社 川崎フロンターレ
代表者武田 信平
住所神奈川県川崎市高津区末長1331-1
電話番号・FAXTEL: 044-829-3011
FAX: 044-813-8619
公式ホームページhttp://www.frontale.co.jp/
クラブカラーサックスブルー、ブラック、ホワイト
ユニフォーム(第1)水色/黒、黒、黒(第2)白、白、白
マスコットふろん太 (イルカをモチーフにしたマスコット)
設立年月日
川崎フロンターレの応援歌を見る報告

川崎フロンターレのWikiWikiを編集する

クラブの概要・歴史

概要

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサッカークラブ。ホームタウンは神奈川県川崎市。ホームスタジアムは中原区の等々力陸上競技場。練習場は同市内麻生区の川崎フロンターレ麻生グラウンドを使用。

1955年に富士通サッカー部として設立。1997年にJリーグへ準会員加盟し、1999年に同正式加盟。

歴史

富士通サッカー部は1955年、中原区の国鉄(現JR東日本)南武線武蔵中原駅前にある川崎工場の従業員を中心に設立され、1967年の関東社会人リーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)の2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあって同1部に昇格。しかし1部からは2年後に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年は八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。

Jリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのまま旧JFLに参加した。1988-1995年には元中国代表の沈祥福(2002年W杯中国代表コーチ、2004年アテネ五輪予選中国代表監督)が選手・コーチとして活躍し、他チームのプロ化が進むJFLで中位の維持に貢献した。外国人選手を除くと大学のサッカー部からの選手補強が多く、選手は富士通所属の社員選手となってアマチュア契約でプレーをしていた。

等々力や大和などで主催試合を行い、特にホームタウンを決めずに活動を続ける富士通を母体としたJリーグクラブ創設の動きは水面下で存在し、富士通の工場がある栃木県小山市などでは誘致の動きも噂されたが、結局富士通本社は自らの手による川崎市でのJリーグ挑戦を選択した。1996年シーズンでの「富士通川崎サッカー部」への改称に続いて、10月にJリーグ参入宣言を行い、11月21日に運営会社「富士通川崎スポーツ・マネジメント」を設立。チームを法人化し、大型補強を開始すると共に、ブラジルの名門サッカークラブ・グレミオとの業務提携を行う事も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。また、この年の第76回天皇杯では3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグのクラブを倒した。

1997年には現在のチーム名となり、Jリーグ準会員と認められた。1976年のJSL1部昇格の中心だった小浜が常務として事実上の責任者となり、富士通からの豊富な資金力を利用して、名古屋グランパスエイトの中西哲生やベルマーレ平塚のベッチーニョ等、多くの選手をJリーグの各クラブから獲得し、富士通川崎時代のレギュラーだった伊藤彰・小松崎保・源平貴久などの富士通社員選手を控えに回して、1年でのJリーグ昇格を目指した。リーグの上位グループに着け、後半戦には野口幸司と長谷部茂利を追加補強し昇格を狙いに行ったが、同9月の上位チームとの直接対決でコンサドーレ札幌(5月に続きバルデスがハットトリック)・東京ガスサッカー部(アマラオの4ゴール)・本田技研サッカー部に3連敗。斉藤和夫監督が辞任するなど終盤でチームが傾き、最終成績で札幌・東京ガスに次ぐ3位に留まり、わずか勝ち点1の差でJリーグ昇格を逃した。

捲土重来を期した1998年シーズンには何人かの元Jリーガーが退団する一方、鹿島アントラーズから鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産したヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団したツゥットなどのブラジル人FWが活躍した。グレミオ留学から復帰した佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも川元正英や久野智昭がレギュラーを獲得し、チームの総合力向上に成功した。最終節のソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、JFL準優勝となり、J1参入決定戦に参戦した。しかし、アウェイでの一発勝負となった1回戦のアビスパ福岡戦(東平尾公園博多の森球技場)では、後半ロスタイムに同点とされると、延長前半13分にVゴールにより逆転負けを喫し、再びJ1参入を逃すことになった。(博多の森の悲劇)

Jリーグディビジョン2 (J2) で迎える事になった1999年は岩本輝雄の補強が注目されたが、前年の昇格失敗でも契約を延長したベット監督のチームは序盤で出遅れた。しかし、メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得し、そのチームの主将だった八重樫から就任を要請された松本育夫新監督が4月の第6節から指揮を執ると一気に盛り返し、新加入のティンガや柏レイソルから途中補強したDF森川拓巳などが勝利に貢献した。

松本監督の構想から外れた岩本などの出場機会が減ることもあったが、チームは順調に勝ち点を伸ばし、11月5日のサガン鳥栖戦(等々力)で浦田尚希が延長Vゴールを決めて2-1と勝利し、J2の2位以内を確定して悲願のJ1昇格を果たした(11月8日にはFC東京が大宮アルディージャに敗れ、他力でのJ2優勝も決定)。開幕当初の岩本に代わり、松本新監督により再び主将に任命された中西によるインターネット上の日記は、前年のJ1参入決定戦を取り上げた金子達仁のルポルタージュと合わせて『魂の叫び』として出版され、引退後の中西がメディアで活躍する契機となった。また、この年には初のマスコットとしてふろん太が発表され、5月には練習場が東京都稲城市にある富士通南多摩工場の敷地内の「富士通南多摩グラウンド」(2005年の工場閉鎖後に稲城市営南多摩スポーツ広場に移管・改称)から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させるなど行政の後押しも加わった。

ところが、J1での活躍が期待された2000年シーズンは惨憺たる結果となった。松本監督は社長となり、後任としてブラジル人ヘッドコーチのゼッカが新監督に就任、現有戦力の大幅な見直し(岩本のヴェルディ川崎移籍、森川の柏復帰など)と有力選手の大量獲得(鹿島からの鈴木隆行・マジーニョ・鬼木達(再移籍)、パラグアイ代表MFアルバレンガ、元日本代表の森山泰行等)を行ったが、従来の選手と新加入選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜との対立が表面化し、富士通出身の杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜副社長中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。

また、外国人の入れ替えで放出(レンタル移籍)となったツゥットを獲得したFC東京がJ1で躍進した事も、サポーターから生じた厳しい批判の一因となった。チーム再建を目指した二度にわたる監督の交代なども逆に混乱を増幅させ、結局J1の年間総合順位では最下位(16位)となって、わずか1年でJ2へ降格することになった(Jリーグで入れ替え戦始まって以来、初の1シーズン降格チームとなった)。この年の川崎の失敗は大量補強による機能不全の悪例として、その後のJ1昇格クラブへの反面教師となった。

また、この年限りで東京都調布市の東京スタジアム(現在の味の素スタジアム)への本拠地移転を表明していたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)との「川崎ダービー」がようやく実現したものの、思ったほどの盛り上がりは見られなかった。

しかし、ヤマザキナビスコカップでは鹿島に次ぐ準優勝となり、2年目のFW我那覇和樹が優秀新人賞を獲得した。ファーストステージ最終節では当時首位だったセレッソ大阪を浦田の延長Vゴールにより2-1で下して眼前での優勝を阻止した。1stステージでは関西4チームに負けなかったなど、明るいニュースも少しはあった。

そして、このシーズン後に再びチーム改革が行われ、松本社長・小浜副社長のほか、この年の主将だった奥野僚右、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを去った。

2001年には、チーム再生プロジェクトが始動し、新監督・堀井美晴のもと、前年に札幌へレンタル移籍していたブラジル人FWエメルソンをサンパウロFCから完全移籍により獲得して1年でのJ1返り咲きを狙った。しかし、前半戦で黒星を重ねて昇格争いから事実上脱落すると、シーズン後半の7月からは石崎信弘新監督の就任、エメルソンの浦和レッズ移籍で再出発を強いられた。その中で、新人DFの伊藤宏樹がJ2 リーグ最終戦の出場停止以外、全ての公式戦にフル出場したのは好材料だった。そしてこの年の11月、約半数の選手を戦力外とする異例の人事を断行したが、その後に行われた第81回天皇杯ではベスト4の成績を収めた。その際に出場したメンバーの半数以上が戦力外通告を受けていたため「リストラ選手の活躍」と話題になった。なお、最終節のモンテディオ山形戦では浦上壮史の好セーブ連発と我那覇の延長Vゴールにより1-0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した。

一方、クラブでは経営陣のトップが一新された。富士通からの支援資金が削減される中、新社長の武田信平をはじめとした首脳陣は長期的視野に立った運営に着手、2002年には運営会社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社川崎フロンターレ」へ変更し、川崎市や他企業およびサポーター持株会などからの資本受け入れを実施した。また、川崎市も資本参加に本格的に乗り出し、他方で市民後援会とフロンターレファンクラブの統合などによりクラブとの関係を強化していった。

2002年、ベンチーニョ、マルキーニョ、マーロン、アレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤にはヴィッセル神戸からレンタル移籍した茂原岳人が加わった。さらに、岡山一成をDFとして獲得し守備力を強化。石崎監督のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、終盤で昇格争いから脱落した。

2003年はブラジルのパルメイラスから獲得した[[ジュニーニョ]]が我那覇和樹とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したアウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。またかつての強敵だった元札幌のバルデスを獲得したが、既に高齢だった事もあり十分な活躍は出来ず、シーズン途中で退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した大分トリニータから石崎監督のためにと移籍し再びJ2でプレーした山根巌、新人ながら主に途中交代要員として全試合でベンチ入りした中村憲剛などのMFが多くの試合に出場した。だが、シーズンを通じての引き分けの多さが響き、最終的にはまたしても「勝ち点1」差での3位に終わり、石崎監督はこの年限りで辞任した。しかし天皇杯ではJ1クラブを次々と倒し、2002年はベスト8、2003年もベスト16とその実力を示し、「カップ戦に強いフロンターレ」を印象付けた。

石崎の後任監督として鹿島アントラーズでコーチを務めていた関塚隆を招聘、また同じく鹿島で長年プレーしたベテランDF相馬直樹を獲得。さらにアルビレックス新潟から2年連続でJ2リーグ得点王に輝いたマルクスを補強し、戦力に厚みを増したこのシーズンは、前年以上の圧倒的な攻撃力で開幕直後からJ2で首位を独走。同年9月26日に那珂市・笠松運動公園陸上競技場での水戸ホーリーホック戦に2-1で勝利し、残り8試合というスピード記録で5年ぶりのJ1昇格を決定した。さらに同年10月2日に地元で開かれた横浜FC戦にも4-0で完勝し、1999年以来5年ぶり2度目のJ2優勝を確定。これも残り7試合というスピード記録だった。また同シーズンはジュニーニョがハイペースでゴールを量産、最終的には39試合出場で37得点を記録してJ2得点王に輝いた。

その後は「勝ち点100、得点100」を目標に残りゲームを戦ったが、11月23日のホームゲーム最終戦となるヴァンフォーレ甲府戦での3-0の勝利でこれを達成し、リーグ最終戦となる11月26日の鳥栖戦(鳥栖)も3-0で勝利して、最終勝ち点105、得点104の「ダブル・トリプル」でシーズンを締めくくった。また、この年の天皇杯では4回戦で神戸を3-2で降し、5回戦では鹿島に敗れベスト16に終わったものの、一時は2点差のリードを奪うなどJ1チームを相手に互角の勝負を展開した。

J1昇格を機に、地域密着にさらに力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。

2000年の反省を踏まえ、前年J2リーグを圧倒的な力で勝ち抜いた現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録し、鹿島に初勝利するなどの快進撃を見せた。その間には、地元川崎市出身のDF箕輪義信が日本代表に召集され、一躍注目を浴びた。最終戦でガンバ大阪に敗れ(この勝利でガンバは逆転優勝を決めた)、最終成績は8位。福家三男GMがシーズン当初に掲げた目標の5位とは勝ち点差3、賞金獲得圏の7位以内には得失点差1でわずかに及ばなかったが、最低条件の「J1残留」を裕にクリアする成績は翌シーズンへの弾みとなった。その後天皇杯でも2年ぶりにベスト8へ進出するなど、昇格初年度としては健闘が目立った一年だった。

アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退し手薄となった左サイドに新外国人マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇のハットトリックなどにより6-0、第2節の京都パープルサンガ戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7-2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切った。

3月末には所属選手の不祥事が発覚するトラブルがあったもののその後も好調をキープし、ドイツW杯前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中に攻撃の要の1人だったマルクスが東京Vに移籍したが、その補充としてMFマギヌンを獲得し、引き続き厚みのある攻撃力を武器に優勝争いを繰り広げた。ドイツW杯終了後にイビチャ・オシム監督が就任した日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が初招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和やG大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。J1昇格2年目とは思えない結果を残した。ジュニーニョ、我那覇、中村、谷口博之の4選手がリーグ戦で2ケタ得点を挙げるなど、チーム合計84ゴール(リーグ1位)という圧倒的な攻撃力を全国に知らしめた。中村と谷口は同年のJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点を叩き出した我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。

昨季の天皇杯で優勝し既にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定により2007年度のACLへの出場権を獲得した(天皇杯前年度優勝クラブとJ1年間リーグ優勝クラブが同一クラブの場合、J1の年間準優勝クラブが繰り上げ出場となるため)。

シーズン前最初の練習試合で新加入のフランシスマールが左膝靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1リーグ開幕戦(等々力)で鹿島アントラーズを下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水エスパルスに勝利、続く4月21日に埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和レッズのホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。

ところが、浦和戦でシーズン初ゴールを決めた我那覇和樹が、試合後の23日に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグのドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の第12節・大分トリニータ戦から復帰したが、その後も精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年にスポーツ仲裁裁判所で審理される事になった。

勢いに冷水を浴びせられた川崎は、以後のリーグ戦で不安定な戦いを強いられた。多摩川クラシコとして共同キャンペーンで盛り上げたりしたFC東京戦の2試合(5月6日、第10節(等々力)で5-2、10月28日、第30節(味の素スタジアム)で7-0)など大量点で圧勝する試合と、守備が耐えきれずに接戦で勝ちきれない試合が錯綜した。名古屋から獲得したGK川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の鄭大世は12 ゴールと飛躍、22ゴールのジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝いたが、我那覇のゴール相当分が減少しながら66得点でリーグ2位の攻撃力と、リーグ11位の48失点のアンバランスが解消できず、8月から9月の不調でリーグ優勝から遠ざかった川崎は前年を下回る5位でシーズンを終えた。

一方、初出場のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループリーグでは順調に勝ち点を重ねた。5月11日の第5節、等々力でのアレマ・マラン戦に3-0で勝利し、F組1位でJリーグ勢初のグループリーグ突破を決めた。しかし、9月19日と26日の準々決勝ではセパハンにPK戦で敗退した(国際試合の項も参照)。 また、この合間に行われた9月23日のJ1リーグ第26節・柏レイソル戦では、アウェー・イスファハンでのセパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0-4と大敗した。イランからの帰国時にUAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していたJリーグの鬼武健二チェアマンはベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為と怒り、この批判は選手起用への越権介入だと反発した川崎サポーターとの溝は我那覇問題もあってさらに深まった。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。

J1リーグ優勝が難しくなり、ACLチャンピオンズリーグでも敗退が決まると、ナビスコ杯と天皇杯が残された。準々決勝から登場したナビスコ杯ではヴァンフォーレ甲府と横浜F・マリノスを破って7年ぶりに決勝に進んだが、11月3日の決勝(国立)ではガンバ大阪の安田理大にゴールを奪われて0-1で敗れた。その直後から始まった天皇杯でも6年ぶりのベスト4進出を果たしたものの、12月29日の準決勝で鹿島アントラーズに0-1で敗れ、シーズンの大きな目標だった「タイトル獲得」はあと一歩でならなかった。

川崎の選手は日本代表でも注目された。中村憲剛はオシム監督から厳しい指摘をされながらも起用され続け、7月のAFCアジアカップでは準決勝まで5試合連続で先発起用された。また、川島永嗣もこの大会に召集され、出場はなかったが、チームを支えた。また、強化合宿に森勇介と黒津勝が初召集されたが、正式メンバーに選ばれての公式戦出場はならなかった。また、鄭大世は本人が強く希望していたサッカー朝鮮民主主義人民共和国代表(北朝鮮代表)に初選出され、6月の東アジアサッカー選手権2008予選大会では3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。

チーム名の由来

「フロンターレ (Frontale)」はイタリア語で「正面の、前飾り」の意味。常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表現したものである。

チーム成績・歴代監督

獲得タイトル

国内タイトル

Jリーグディビジョン2    1999年、2004年

個人タイトル

ベストイレブン

2006年  谷口博之、中村憲剛

2007年   ジュニーニョ、中村憲剛


得点王

2007年  ジュニーニョ


ヤマザキナビスコカップ

2006年   谷口博之 ニューヒーロー賞

スポンサー

サプライヤー アシックス

胸  富士通(FUJITSU)

袖 ノエル(NOEL)

背番号 日興コーディアル証券

パンツ JA全農福島(ふくしまの米)

マスコット

ふろん太

著名人のサポーター

ルー大柴(タレント)、西城秀樹(タレント)、山本“KID”徳郁(格闘家)など。