水戸ホーリーホックの詳細情報

正式名称水戸ホーリーホック
所属リーグJ2
国・ホームタウンアジア 日本 茨城 水戸市
サポーター数サポーター: 71
コミュニティ登録者:48
ホームスタジアムケーズデンキスタジアム水戸

次の試合予定

次の試合予定が登録されていません。

水戸ホーリーホックの詳細情報・プロフィール

競技サッカー
ニックネーム、通称
ホームスタジアムケーズデンキスタジアム水戸
法人名・運営母体株式会社 フットボールクラブ水戸ホーリーホック
代表者沼田邦郎
住所茨城県水戸市笠原町136-1
電話番号・FAXTEL: 029-212-7700
FAX: 029-212-7705
公式ホームページhttp://www.mito-hollyhock.net/
クラブカラー
ユニフォーム(第1)青、青、青(第2)銀、銀、銀
マスコットホーリーくん
設立年月日
水戸ホーリーホックの応援歌を見る報告

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クラブの概要・歴史

概要

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。ホームタウンは茨城県水戸市。

観客動員の少ないチームで、かつては存続の危機に直面したことがあった。原因としては、使用する笠松運動公園陸上競技場の自家用車以外でのアクセスがあまり良くないこともさることながら、同じ茨城県にJ1の人気クラブで常に優勝争いを繰り広げる鹿島アントラーズがあるためだと思われる。

歴史

1990年に土浦市で精肉業・プリマハム土浦工場の実業団チーム「プリマアセノFC」として発足。後に「プリマハムFC土浦」と改められる。1996年度の地域リーグ決勝大会で準優勝し1997年シーズンから旧JFLに参加。しかしプリマハムがサッカー部の支援を打ち切ったため、水戸市で1994年結成された「フットボールクラブ(FC)水戸」と合併し本拠地を移転、現在のチーム名となる(なおチームの系譜としてはプリマハムサッカー部の結成された1990年を結成した年とみなしている)。


水戸ホーリーホックとしての公式戦初戦は1997年4月20日、旧JFL開幕戦のコンサドーレ札幌戦(於笠松運動公園陸上競技場)である。結果は0-2での敗戦であった。ここから水戸は14連敗を続け(うち延長戦でのVゴール負けが2試合)、初勝利は7月19日、第15節の川崎フロンターレ戦(1-0)となった。なお、Jリーグ準会員だった川崎は、このシーズンの最終成績で勝ち点1及ばずにJリーグ昇格を逃している。水戸は後半戦に3勝を挙げたが、16チームのリーグ戦で最下位に沈んだ。ただし、コンサドーレ札幌の昇格と福島FCの消滅により、地域リーグ決勝大会2位チームとの入替戦は行われず、水戸はJFLへの自動残留に成功した。

1998年には新監督に三浦俊也を迎え、巻き返しを図ったが、年間予算が1億円強と言われ(JFL参加クラブは最低でも約3億円、Jリーグ準会員では20億円前後とされる)、プロ契約選手でもガソリンスタンドや水産加工所でのアルバイトをしないと生活出来ない状況では成績の劇的な向上は難しく、最下位脱出が精一杯だった。この年、翌 1999年からスタートするJリーグ ディビジョン2(J2)への加盟を申請するも、経営基盤の不安定さ、スタジアム改修に対する地元自治体の動きの鈍さ(岡田広水戸市長が代表例とされる)という理由から加盟は見送られ、新JFLへの参加となった。

1999年、監督が二宮浩に交代し、J2昇格へ背水の陣を敷いた水戸だったが、9チームによる3回戦総当たり制(ステージ制)となった新JFLでも苦戦し、第1ステージでは6位に終わった。しかし南光太などの活躍で第2ステージはこの年に優勝した横浜FCにも勝利して7勝1敗の首位となり、通算では3位でシーズンを終えた。Jリーグへの昇格条件は「JFLで2位以内」だったが、優勝が特例参加による準会員資格の横浜FCだったため、JFL正会員の中では2位という点が考慮され、翌2000年からのJリーグ(J2)加盟が認められた。


チーム初の外国人監督としてユーゴスラビアからバビチ・ブランコを招いた水戸は、J2昇格後の公式戦初戦を2000年3月11日の浦和レッドダイヤモンズ戦(於駒場スタジアム)で迎え、結果は0-2で敗戦であった。資金・戦力の欠乏を理由に専門誌などでは先行きを危ぶまれたが、第2節の大分トリニータ戦でJ初勝利をあげると、全試合出場を果たしたGK本間幸司を中心とした粘り強い守備や(失点数はリーグ7位タイ)、シーズン途中加入で36歳の高齢ながら元ブラジル代表の技を披露したFWジョン・パウロなどの活躍により、昇格初年度の最終順位は9位、しかも6位のサガン鳥栖までは勝ち点5差という善戦を見せた。

なお、水戸のJ2参加が実現した理由の一つは、2002年の全国高等学校総合体育大会(インターハイ)のメイン会場としてJ1規格を満たすように改修される笠松運動公園陸上競技場のホームスタジアム使用が水戸市陸上競技場|水戸市立競技場の代替として特例認可されたためであったが、その改修工事のために2000年は笠松での試合開催ができず、ひたちなか市総合運動公園陸上競技場と日立市民運動公園陸上競技場(日立市)の2会場を中心に主催試合を行った。そのうち、より規模の小さい日立では9試合が行われたが、その中に浦和戦のホームゲーム2試合が含まれ、公称収容人数 8464人のスタンドは浦和サポーターを中心に超満員(観衆約6000人)となったが、ピッチ状態の悪さなどに批判が集まった。その後、日立での水戸戦開催は2007年の1試合(ベガルタ仙台戦)まで行われなかった(Jリーグ事務局から使用禁止通達を受けたという説もある)。また、警備費用の負担という名目で水戸は浦和戦のみ各席種のチケット販売価格に通常から200円上乗せしたが、対戦相手によってチケット価格を変えるのは当時のJリーグでは珍しかった。

2001年はシーズン前にアルビレックス新潟から木澤正徳(現コーチ)、川崎フロンターレから池田伸康など、ベテラン勢を獲得するも、シーズン前半はたった1勝しか挙げられなかった。その後、補強した韓国人選手の活躍や、メインスタジアムの笠松運動公園陸上競技場のグランドオープン効果などがあり、最終的には最下位を脱出し11位で終わった。監督は川崎フロンターレで指揮を執っていた小林寛を招いたが、7月にはゼネラルマネージャーへ転身し、コーチの菅野将晃が監督に昇格して後を継いだ。シーズン後、経営難からチーム存続問題が浮上し、FC水戸代表としてのプリマハムFC誘致からクラブ経営を続けた石山徹社長が辞任し、小林が石山の所有株と社長職を引き継いで、チームのJリーグ加盟が暫定承認される事になった。なお、この年のチーム得点王(10得点)は東海大から加入して2年目の須藤大輔で、翌年に湘南ベルマーレへと移籍したが、その際の移籍金は常に苦しい水戸の財政を少なからず助けたとも言われている。

2002年は、小林新社長が経営安定化とチーム成績向上を迫られた一年となった。菅野体制2年目のチームではFW小野隆儀が14ゴールを挙げ、守備でもシーズン失点数もリーグ最下位ながら前年比20点減の73失点に抑えて、最終順位は1つ上がった10位となった。一方、J2リーグ戦1試合の平均観客数は前年の1559人から2739人に増え、2002年W杯のために来日していたコスタリカ代表との国際親善試合も実現した。これらの実績により、水戸はJリーグから加盟継続が正式に承認された。しかし、増えたとは言っても水戸の観客動員数はJ2リーグ最低で、平均値の約4割にとどまっていたため、更なる努力が求められた。


クラブの存続問題が一息ついた2003年は、1980年代に日本代表の主将として活躍した前田秀樹を監督に迎え、守備重視からのカウンター戦術をベースにしたチーム強化に乗り出した。最も活躍したのは、同年シーズンにJ2へ降格していたサンフレッチェ広島からレンタル移籍で獲得した、現在は日本代表のセンターバックを務めるDFトゥーリオだった。トゥーリオはセンターバックとして水戸の守備を固めると共に、機を見てどんどん攻め上がり、チーム得点王の10ゴールを記録した。トゥーリオは同年 10月、日本への帰化が認められ、登録名を現在の「田中マルクス闘莉王」に変更した。これらの活躍もあって、水戸は4回戦制のJ2で開幕ダッシュに成功し、一時は首位、11節終了時の第1クールでも2位という好成績を挙げた。その後は徐々に順位を低下させたが、最終順位でもチーム史上最高の7位にまで躍進した。10月からは過去の経営危機への反省から、運営資金を広く集め、地域社会での認知度を高めるために「水戸ホーリーホック支援持株会」が拠出金募集を開始した。

2004年は闘莉王のレンタル移籍が延長されず浦和へ完全移籍し、それまで長らくチームを支えた小野、北川のFW、ディフェンスラインを支えた冨田大介が抜け、その代わりに川崎フロンターレから小林康剛を、大宮アルディージャから磯山和司など地元茨城出身の選手を獲得したことで話題を集め、開幕戦の湘南ベルマーレ戦では9155人の観衆を集めた(ホーム開幕戦では2007年現在最高記録。リーグ戦のホームゲームでは2位)。この年の1試合平均観客数は3773人で、現在までの史上最高値となっている。しかし、前年と比較して主力が多数入れ替わった影響か、なかなか勝ち星が奪えずホームでは5月5日の大宮戦から10月16日のヴァンフォーレ甲府戦まで13戦勝利なしという事態が続いた。この間、7月24日の川崎戦では、アウェー戦会場の等々力陸上競技場に集まった水戸サポーター有志による第1回納涼漢祭りが開催され、他チームのサポーターの間でも反響を呼んだ。更には、下記の様なJ1昇格お見送りに関しての珍事も作ってしまった。結局、チームはJ2史上自己最少の6勝しかできなかったが、44試合中19試合(42%)の引き分け(勝ち試合6試合分)で積み上げた勝ち点が効いて、2年連続一ケタ順位の9位となった。

また、第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、4回戦で鹿島アントラーズとの「茨城ダービーマッチ」が公式戦で初めて実現した。しかも、偶然にも「茨城県民の日」である11月13日の対戦になったが、笠松運動公園陸上競技場で行われたこの試合は0-1で惜敗した。なお、天皇杯とJリーグヤマザキナビスコカップ(ナビスコ杯)を合わせ、水戸は未だにJ1リーグ所属のクラブに勝利した事がない。

2005年は、開幕前に2つの変化があった。この年から1月のチーム始動後の1次キャンプを福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズで行い、同所でキャンプ最終日にファンクラブ会員イベントを行うようになった。続いて2月には「いばらきサッカーフェスティバル」として鹿島とのプレシーズンマッチが行われ、以後年1回の頻度で定例化した。鹿島は茨城県を代表するJリーグの強豪として知られ、水戸市内でも公式ショップや小学生・幼稚園児(4種)向けのサッカースクール(旧内原町)などを開設しているため、後発の水戸とは競合関係にもあったが、この試合は両者の関係改善を示した。また、この年に新JFLからザスパ草津が昇格し、水戸は草津との対戦を「北関東ダービー」と称して共同参加キャンペーンを実施した。10月には日立市出身のシンガーソングライター、ecoによる公式応援歌「走れ☆ホーリーホック!」が発売された。

一方、チームは強化策として前年の決定力不足解消の為、パラグアイ人FWのデルリスを獲得し、彼にボールを集中させるため基本システムをそれまでの4-4-2から4-5-1へと変更した。序盤は連敗をしたものの、システム変更策は功を奏し、デルリスは前半戦のみでチームトップの8得点を決めた。しかし、その得点力に注目した札幌がレンタル元のチームに好条件を出したため、デルリスがシーズン中盤に移籍してしまった事で再び決定力不足が心配されたが、シーズン後半はDF陣の相次ぐ攻撃参加や、若手のファビオの加入などで2年ぶりの2桁勝利となった。ただし、順位は10位へと一歩後退した。


2006年は水戸にとって初経験が多いシーズンとなった。 まず、2月にはチームの応援を盛り上げるための女子チアリーディングチーム、「Mito Holy's」(水戸ホーリーズ)を発足させ、続いて4月2日からはJR水戸駅ビル「EXCEL」の屋上に新規設置された人工芝のミニサッカー場「FUTPARQUE MITO」(フットパルケ水戸)の運営を請け負う事になった。

チームは5月6日の第14節の札幌戦(笠松)で、レンタル移籍で加入したブラジル人FWアンデルソンがハットトリックを達成。 これは水戸の選手がJ2リーグ273試合目で記録した初のハットトリックだった。 続く第15節の[[東京ヴェルディ|東京ヴェルディ1969]](東京V)戦ではクラブ史上初めて東京・国立競技場で試合を行い、アンデルソンの2試合連続ゴールで1-0と勝利した。 更には6月2日の横浜FC戦では横浜FCの連続無失点記録を770分で止めたり、6月24日の[[柏レイソル]]戦では、敗戦が目前となった後半ロスタイムで土壇場で同点に追いつくなど、J2上位クラブを大いに苦しめた。 8月13日には那珂川河川敷の水戸市市有地に3面整備された「水府町グラウンド」が開場し、クラブの悲願だった専用練習場「ホーリーピッチ」として水戸に利用権が与えられた。

シーズン後半から前田監督は将来の上位進出に備えるため、カウンター重視の守備的戦術からボールを保持し、ショートパスの連続から能動的にゴールへ迫る攻撃的な戦術への転換を開始した。これは「サッカーの質を上げるために必要な措置」と評価された反面、対戦相手の監督から「あまりにも消極的」と非難されても守り続けるのをやめた事で、逆に「内容は良いが勝てない」という試合が増えた。 その結果、水戸の勝ち点は伸び悩み、昨年と同じ10位でのシーズン終了となった。 1試合平均観客数も3017人まで落ち込み、再び経営の脆弱さが問題となった。

2007年、水戸は大きな試練を迎えた。 前年17ゴールのアンデルソンが鳥栖へ移籍し、更にキャプテン吉本岳史が故障で離脱。その結果チームは出遅れ、前田監督の攻撃的戦術は解説者などから評価されたものの、シーズン初勝利は第13節の東京V戦まで待たねばならず、 2勝目も第21節の山形戦となるなど、前半戦(第26節)終了時点でわずか3勝にとどまった。観客動員も更に冷え込み、第11節の湘南戦では6シーズンぶりに3ケタ台の958人となった他、前半戦主催12試合中6試合で観客数が2000人以下となった。チームの勝敗のみならず、ローコストでのクラブ経営、少人数体制での顧客サービスの低下、クラブスタッフの相次ぐ退職などからサポーターへのアプローチやスポンサーへの営業力が低下しクラブ経営を問われる声が上がった。この状況に対し、クラブ株主の過半数から小林社長の経営責任を問う声が上がり4 月23日付で宮田裕司取締役が社長に就任する人事が行われた。 チームは旧JFL以来10年ぶりのリーグ戦最下位を回避するため、Jリーグで9シーズン目となるベテランのブラジル人MFビジュを獲得するなど、チーム戦力の再整備を行っている。同時に、経営危機を再燃させないための新たな手法が求められている。シーズン後半は昨年後半から続けてきたアクションサッカーの戦術が浸透してきたことにより前半より失点数が減った。最終成績は12位で8勝しか挙げられなかったが、そのうちの3勝は東京V、札幌、C大阪など、J2上位クラブから挙げた勝利で、J2上位クラブ相手に十分戦える戦力まで成長した。

一方、明るい話題として1月にはMF小椋祥平がU-22(22歳以下)日本選抜に選ばれ、次いで2008年の北京[[オリンピック]]出場権を争う「アジア男子サッカー2008」の2次予選でもU-22日本代表に選出、6月6日のマレーシア戦に出場した。 小椋は修徳高等学校から2004年に入団、1年目からトップチームで出場し、他のプロチームを経由せずに水戸入りした「生え抜き」選手では最も高い年代の世代別代表入りとなった。

しかし、去就が噂されていた前田監督は、一部サポーターから慰留の声はあがったものの2007年シーズン限りで解任。さらに、キャプテン吉本が横浜FCへ、U-22日本代表経験者の小椋が横浜F・マリノスにそれぞれ移籍となった。

なお、シーズン3勝目となった6月17日の第22節愛媛FC戦が行われた水戸市立競技場は、この試合を最後に大規模な改装工事に入った。 2009年4月の再開場後は、収容人数1万人のスタジアムとなり、水戸はようやく水戸市内にJ2規格を満たす競技場を得る事になる。


2008年は前田監督に代わってかつて水戸で選手としてプレーした木山隆之氏が新たに監督に就任。そしてオフでの補強は他のJクラブを解雇された選手の目立った獲得はせず、大学サッカーでそれなりの実績を挙げた選手の獲得に重点を充てた。また、浦和レッドダイヤモンズから赤星貴文、東京ヴェルディから弦巻健人らをレンタルで獲得した。シーズン開幕はいきなりここ2年間のJ1経験のあるチームと5連戦と(うち3節~5節は2007年J1在籍クラブ)なった。結果として5節終了時点で1勝2敗2分(うち昨年J1在籍クラブ全てから勝ち点を取った)と健闘するが、3月31日に社長の宮田裕司が昨年8月にクラブスタッフとの親睦会で飲酒運転をしていたことが発覚し、辞任する騒動が起こった。

チーム名の由来

「ホーリーホック(Hollyhock)」とは英語で「葵(タチアオイ)」を意味し、水戸藩(徳川御三家のひとつ)の家紋の葵(ただしこれはフタバアオイのことで葵科ではない)から取られた。

チーム成績・歴代監督

獲得タイトル

国内タイトル

北関東ダービー2009初代チャンピオン

海外タイトル

個人タイトル

チーム記録

チームの特徴

チームの特徴

スポンサー

胸 ケーズデンキ

袖 なし

背中 なし

マスコット

ホーリー君

チームのエピソード

サポーターの特徴

サポーターの特徴

著名人のサポーター

サポーターのエピソード

スタジアムとホームタウン

ホームスタジアム

ケーズデンキスタジアム水戸

ホームタウンー

茨城県水戸市

ダービーマッチ

同じく茨城県を本拠地とする[[鹿島アントラーズ]]との「茨城ダービー」鹿島はJ1、水戸はJ2のためリーグ戦で戦ったことはなく、天皇杯ナビスコカップのみである。また、開幕前にはプレシーズンマッチとして対戦している。 2009シーズンに栃木がJ2昇格したことにより、それまで草津と争っていた北関東ダービーを 水戸、草津、栃木の3チームで争うことになった。優勝カップも作られ試合前やハーフタイムには サポーターも含めての対戦などが組まれている。

ユニフォーム

チームカラーは青 シャツ、パンツ、ストッキングともに青 2010年はシャツに縦縞を採用 ホームがインテル風、アウェーがユベントス風

下部組織

関連情報