浦和レッズの詳細情報

正式名称浦和レッドダイヤモンズ
所属リーグJ1
国・ホームタウンアジア 日本 埼玉 さいたま市
サポーター数サポーター: 1866
コミュニティ登録者:127
ホームスタジアム駒場スタジアム埼玉スタジアム2002

最新の試合結果

Jリーグチャンピオンシップ 準決勝
2015/11/28(土) 14:00

次の試合予定

次の試合予定が登録されていません。

浦和レッズの詳細情報・プロフィール

競技サッカー
ニックネーム、通称浦和レッズ
ホームスタジアム駒場スタジアム ,  埼玉スタジアム2002
法人名・運営母体株式会社 三菱自動車フットボールクラブ
代表者橋本 光夫
住所埼玉県さいたま市緑区中野田500
電話番号・FAXTEL: 048-812-1001
FAX: 048-812-1212
公式ホームページhttp://www.urawa-reds.co.jp/
クラブカラーレッド
ユニフォーム(第1)赤、白、黒(第2)白、黒、白
マスコットレディア (1997年にフレンディアと結婚)
設立年月日
浦和レッズの応援歌を見る報告

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クラブの概要・歴史

概要

正式名称は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

Jリーグ発足時より参加している10チームの1つ。ホームタウンは埼玉県さいたま市(旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002およびさいたま市駒場スタジアム、練習グラウンドは大原サッカー場。

Jリーグ開幕時から熱烈なサポーターの支持を受けるチームで、後述するようにJリーグではトップクラスの観客動員・営業収入を誇る。かつてはチームの人気に成績が伴わず、1999年にはJ2降格という屈辱を味わったこともあるが、21世紀に入ってからは潤沢な資金を活かして戦力や環境の整備を図り、数々のタイトルを手にするようになった。

熱狂的ファンが多いとされる理由には諸説あるが、元来浦和市がサッカーの街として知られていたことも起因する。過去に全国高等学校サッカー選手権大会だけでも埼玉県師範学校が1度、県立浦和高校が3度、市立浦和高校が4度、浦和西高校が1度、浦和南高校が3度と、合計12回の全国制覇を遂げている。しかし、1980年代からは優勝はおろか県代表として全国大会出場を逃すことも多く、アマチュアの低迷が逆にプロサッカーチームの待望論や熱狂的なファンの獲得にも繋がったといわれる。 その他の理由として、埼玉県はJリーグ発足時にも多くの人口(約600万人以上)を抱えていたが、当時の県内のプロスポーツ事情は県南西部の所沢市に本拠地を置く西武ライオンズがあるものの、必ずしも県全体から支持を得ているチームとは言いがたい状況が挙げられる。

歴史

浦和市(当時)側は、当初、日本サッカーリーグの強豪本田技研サッカー部を母体にし、本田技研狭山サッカー部と統合した新チーム作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、同リーグ2部の中堅NTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県には日本サッカーリーグに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため川淵三郎に相談したところ三菱自工を紹介された。


三菱自工はサッカー部の活動の中心であり本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(後のベルマーレ平塚、現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。


こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した。前述の通り、クラブ名に三菱グループのコーポレートマークであるダイヤモンドを入れ、クラブの運営会社名にも三菱を冠するなど、Jリーグのクラブの中でも比較的地域色を前面に出さず、企業色を強く打ち出す体制であったが、浦和市側は本命と考えていた本田技研に一度断られているために、Jリーグ発足時に浦和市をホームにしてくれるチームの確保が最重要課題であったので、譲歩に大きな抵抗がなかった。また、埼玉県・旧浦和市は高校サッカーこそ強豪地域ではあったが社会人レベルでは前述のチームを除くと全国的に有力なチームがないことを自覚していたためにクラブ名称などについても、天皇杯や日本サッカーリーグなどの優勝経験もある伝統の三菱重工サッカー部のイメージを印象づけることはJリーグ参加へはプラスになると考え、肯定的な意見が多かった。そして1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の1つに選出され、翌年秋のJリーグナビスコカップに出場し、記念すべきJリーグ公式戦の初陣を大宮公園サッカー場(現・NACK5スタジアム)で飾った。


1992年、Jリーグ開幕前に開催された最初のナビスコカップでは5勝4敗と勝ち越したが、予選5位となり惜しくも上位4チームによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯も準決勝まで進出し、翌年から開催されるJリーグでは優勝候補と挙げる解説者が現れるほどの期待感を持つようになる。

しかし、この時期チームが世代交代期に掛かったが新戦力の補充に手間取り、戦力がどんどん低下してゆく。また、Jリーグ開幕で急激に進化しつつあった日本サッカー界の技術研究や革新にも出遅れる。特に守備面は事実上の壊滅状態であった。1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、ガンバ大阪名古屋グランパスとともに、「Jリーグのお荷物」などと呼ばれてしまう。サポーターの熱狂的な応援はこの時期から有名で、試合前にサポーターが肩を組んでチームの歌を歌う姿、敗戦を目の当たりにした彼らが激怒する様などもワイドショーなどでよく報道された。また1993年シーズンは、両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:ヴェルディ川崎)の優勝を目の前で決められる屈辱を味わった。

1994年には、ヴェルディでベンチを暖めていた元日本代表の菊原志郎をレンタル移籍で獲得する。このとき菊原は入団会見で「読売と比べればまだまだレベルが低い」と発言しているが、周囲も納得してしまうほど、当時のレッズは低迷していた。 1993年最下位でシーズンを終了し当時の森孝慈監督は「3年間分負けた」と発言した。

ちなみに、当時同じく低迷していた日本プロ野球の阪神タイガースと比較され、「Jリーグの阪神」と揶揄されたこともある。2000年代に入り現在は阪神、浦和とも戦力を上げ、両チームとも常に優勝候補と呼ばれており、不思議な因縁がある。

当時の補強方針にも疑問がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せず、センターバックにコンバートされたことはチームの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの、肝心のDFは補強されておらず、サポーターや解説者からは「GKを獲得する前に、DF陣を補強したほうがいいのでは」、「外国人枠の無駄遣い」と揶揄され、ミロ自身も出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し、3連敗を喫した後、報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」、「もう帰りたい」と思わず漏らすほどだった。結局、この時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけだったといえる。しかし、94年セカンドステージからギド・ブッフバルト、ウーベ・バインが加入すると、チームは徐々に改善の兆しを見せていった。


1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で、チームは躍進を遂げる。前年に入団した元ドイツ代表のDFギド・ブッフバルト(04-06年監督)の活躍によってチームの守備がようやく安定し、1995年の第1ステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。

その後は中位にとどまることが多くなる。三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。通年シーズンであった1996年は、第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず、雨の中国立競技場を超満員にした第28節の鹿島戦にPK負けを喫したことで望みがなくなり、最終的には6位に終わった。1997年、ブッフバルトが退団・帰国。高額報酬の選手を獲得できない状態だったが、1998年は三菱OBの原博実監督の下、新加入の小野伸二を擁して第2ステージで3位となった。


しかし、1999年には小野や外国人選手の故障、選手補強が引き続き厳しい環境だった経営的要因等のために成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原監督を更迭し(後にFC東京の監督となる)、後任にア・デモスを迎えるが、ついに年間順位で15位となり、J2へ降格した。この時は最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で降格となり「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事は、世間にも衝撃を与え、テレビや新聞、雑誌等でも特集された。また、浦和のJ2降格は翌2000年のJリーグ全体、とりわけJ1リーグ関係の経営収支にも潜在的に僅かながらだが悪影響を与えたとも言われている。一方でJ2の試合では多くのレッズサポーターが遠征を行ったことで観客動員数が増加し、各J2クラブに大きな刺激を与えた。

2000年シーズンも苦戦が続いたがJ2の2位となり、J1へ復帰。3位大分との勝ち点差はわずか1点だった。最終節のサガン鳥栖戦の延長前半5分に土橋正樹のVゴールでようやく勝利するという際どさであった。


2001年、それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更。しかしブラジルに強力なコネクションがあるはずもなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノが全く機能せず、結果は失敗に終わる。第1ステージ終了後に小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍。その後、2000年は札幌に在籍し、2001年に川崎へ移籍したエメルソンを獲得した。10月13日、埼玉スタジアム2002でのこけら落し(横浜F・マリノス戦)に60,553人の観客を集め、リーグ戦初の6万人試合となった。

埼玉スタジアム2002は2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムとの併用の形で正式な本拠地として登録され、現在は観客数の増大に対応するためリーグ戦の殆どの試合で使用されている。なお、これに伴い駒場スタジアムはリーグ戦では年間1~2試合程度の開催に減少したが、カップ戦などでは現在もメインで使用されている。


2002年、日本代表や磐田・京都で指揮を執ったハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し、再度ヨーロッパ・サッカー路線へ戻る。第2ステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコカップでは決勝で鹿島アントラーズに敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たし、タイトル獲得への手応えを掴んだ(この試合のチケットが発売開始わずか数十分で完売し、チケットを手に入れられなかったサポーターも多数いた。

レッズサポーターの絶対数の多さと優勝に賭ける熱意を世間に知らしめることとなった。この傾向は、レッズが決勝進出した2003年と2004年にも続いた)。苦難の時代のチームを長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。

この年、森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再スタートし、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。


2003年、福田正博の引退試合が埼玉スタジアム2002に5万人以上もの観客を集めて行なわれる。11月、再びナビスコカップの決勝で鹿島アントラーズと対戦。前年は鹿島の前に0-1で涙をのんだが、今回は主力の多くが不在の鹿島を終始圧倒して4-0で圧勝、前年の雪辱を果たして初タイトルを獲得した。この試合では、スタンドの8割を埋めたレッズサポーターによる大掛かりなパフォーマンスが繰り広げられた(選手入場時と後半開始時に、鹿島側ゴール裏を除くスタンドのほとんどを浦和のチームカラーである赤・白・黒のシートで彩った。試合後地元に残ったサポーターに対する「優勝報告会」が駒場で行われた)。なおその直後、 J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。

前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。


2004年、オフトに代わってブッフバルトが監督としてチームに復帰し、ヘッドコーチに横浜F、市原、京都の監督を務めたゲルト・エンゲルスを迎える。選手の大幅補強を実施し、ナビスコカップの連覇は浦和OBの原監督率いるFC東京に阻まれてしまったが、J1リーグ第2ステージでは首位を快走。11 月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、ガンバ大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため、2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は、15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。 駒場スタジアムで開かれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで一部の熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたり、バイクでパレードをするなど、過熱化した大騒ぎとなったが、幸いにも怪我人や逮捕者は出なかった。

12月5、12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利したが、2試合通算スコアで同点だったためVゴール延長→PK戦の末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦、年間総合成績では初めて1位になった。

入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。


2005年、J1リーグ最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しか出来ず、最下位も経験してスタートダッシュに失敗した。また、開幕直前で山瀬功治が横浜F・マリノスへ移籍、そしてシーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サードへ完全移籍したことや、アルパイの退場劇、主力選手の故障が相次いだことなどから苦戦を強いられていたが、途中からMFポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強し、最終節までもつれた優勝争いを演じた。優勝したガンバ大阪、ジェフ千葉などの上位チームに勝てなかったこともあり、勝ち点59でシーズンを終えたが、ガンバ大阪とはわずか勝ち点差1であった。レッズ以外に3チームが勝ち点59で並んだが、得失点差で結局2年連続の年間2位になった。得点力は、ガンバ大阪に次ぐ65得点、さらに、リハビリから復帰した坪井慶介、2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王、さらに、05シーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍で、リーグ最小失点の37失点と、トラブルが多かったチーム事情を考えれば健闘と言える結果を残した。そして天皇杯では、マリッチが全試合で得点(5試合6得点)をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾った。これにより、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝を果たしている。

2006年シーズンにさきがけ、東京ヴェルディ1969を契約満了となったFWワシントンおよびMF相馬崇人を完全移籍で、セレッソ大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、さらに小野伸二の復帰と大規模な戦力補強を行った。

2005年2月にはさいたまレイナスFCを統合する形で女子チームを発足させたり、7月には総合スポーツランド・レッズランドを仮オープンさせるなど地域での活動を一気に展開させた年でもあった。また、2005年度から損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消して自立経営が始まったほか、地域との結びつきを強めるための増資計画が公表された(三菱自工が消極姿勢を示したことから実現には至っていない)。


2006年、2月25日、国立競技場で行われたシーズン最初の公式戦・ゼロックス・スーパーカップでガンバ大阪に3-1で勝ち、浦和レッズとなってはじめて同タイトルを獲得し(旧日本サッカーリーグ時代には、前身の三菱重工時代にスーパーカップ3度優勝している)、幸先のよいスタートを切った。また、2006年J1第2節のジュビロ磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月には、香港におけるフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。

2006年J1第2節で、レッズはJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数500万人を突破した。これはJリーグ加盟31クラブを通しても初めての快挙であり、またJ1在籍年数が1年少ないにもかかわらず、2位の横浜F・マリノス以下を大きく引き離す数字である。またこの年度の観客動員数は774,749人でこの数字もJリーグ歴代最高年間観客動員数である。

この年は開幕ダッシュに成功。その後も着実に勝ち点を延ばし、第3節以降は常に3位以内を保ち、さらに第22節から6連勝して第25節に首位を奪い、以降は一度も首位の座を明け渡さなかった。そして12月2日、シーズン最終節を首位で迎えたレッズは、2位のガンバ大阪との直接対決に臨んだ。この試合結果が「勝ち又は引き分け、若しくは得失点差が2点差以内の負け」で優勝という条件の下、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍でこの直接対決を3-2で制し、初のJリーグ年間王者に輝いた(ワシントンはこの2得点で自身初となるJリーグ得点王のタイトルを獲得)。

J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。最終節ではリーグ戦史上最多観客動員となる62,241人を記録した。その最強のサポーターは、選手入場時にバックスタンドに赤・白・黒のシートおよび黄色の風船でクラブのエンブレムを描くという過去に例のない大パフォーマンスを行った。

優勝の原動力となったのは、リーグ最小の28失点(1試合平均約0.82失点=J1リーグ史上最小)に抑えた強固な守備力、浦和レッズ史上3人目の得点王に輝いたワシントン、DFながらFW顔負けの豪快なゴールを何度も記録した闘莉王の得点力、ベンチ入りすら出来ない日本代表経験者がいるほどの圧倒的な選手層、連敗が一度もなく特にホームでは無敗(年間ホーム無敗は史上初/敗戦した次の節は全試合完封勝ち)という記録を作った安定感のある戦いぶりであった。勿論、どのスタジアムでも圧倒的な応援で選手を鼓舞し、ともに戦ったサポーターも強力な後押しとなった。

なお、この年のリーグ戦戦績は前半17試合と後半17試合の両方で最多勝点(36)を上げ、04年以前のステージ制と照らし合わせて考えても両ステージを完全優勝となる成績で、安定した戦績を残した。

天皇杯では、ワシントンや闘莉王、アレックス、坪井など主力の多くを途中から欠く陣容となったが、リーグ戦では控えであった小野伸二ら選手達が奮起して勝負強さを随所に発揮し、ジュビロ磐田・鹿島アントラーズというかつての強豪を立て続けに破り、決勝ではほぼベストメンバーで臨んだガンバ大阪を1 -0で三たび破り2年連続優勝(Jリーグ開幕後の天皇杯連覇チームは初めて)、リーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成。同時に2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

選手、監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルト監督は2006年の天皇杯を最後に退任し、2007年シーズンは国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。

クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が2006年10月にスタート。優勝が決まる最終戦には、浦和の町じゅうがファンやクラブの手で赤く染め上げられた。また、 2002年からのチーム強化、埼玉スタジアムを活用した増員効果から入場料収入は25億3100万円まで増加し、全体収入も70億7800万円と70億円を突破。2006年6月に社長は藤口光紀に交代した。


2007年2月13日、オーストリアのザルツブルクで行われたBulls Cupに出場した。これは現地のオーストリア・ブンデスリーガに属するレッドブル・ザルツブルク主催によるイベント色が濃い国際大会であり、ドイツのバイエルン・ミュンヘンも出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、浦和レッズはザルツブルクには1-3、バイエルンには0-3と大敗した。この結果によりJ リーグのレベルが欧州標準からはかなり劣っているとの指摘を日本国内のみではなく、オーストリアやドイツのメディアからも受けた。また、日本代表のオシム監督からレッズ所属の代表選手に対して、プレー内容の苦言を呈された。

2007年2月24日、国立競技場で行われたゼロックス・スーパーカップでガンバ大阪に0-4で惜しくも敗退し、連覇を逃した。

3月3日の開幕戦、前年J2優勝の横浜FCと対戦、苦しみながらも2-1で勝利し、2001年のJ1復帰以降1度も勝っていなかった開幕戦で勝利した。


5月23日のAFCチャンピオンズリーグのグループリーグでシドニーFCとホームでの対戦で0-0で引分け、E組のグループ1位となり、同時に出場したF組のグループ1位の川崎フロンターレと共に決勝トーナメントに進出した。

決勝トーナメントでは準々決勝で全北現代と対戦し2戦2勝、準決勝で城南一和と対戦し、2試合とも2-2の後PK戦で勝利、また決勝でセパハンと対戦し1勝1分けで日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した(欧州に倣ってACLの前身アジアクラブ選手権を含めて換算すると、1999年のジュビロ磐田に続き2チーム目となる)。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会始まって以来の快挙であった。なお、優勝を決めた11月14日は「埼玉県民の日」であった。

この結果、12月7日から始まるFIFAクラブワールドカップにアジア代表として参戦することが決定した。

Jリーグでは2位以下に最大勝ち点差10をつけて首位にいたが、ACLセパハン戦後に失速。33節には2位鹿島アントラーズとの直接対決にも敗れ、勝ち点差1の首位で最終戦を迎える。

天皇杯では2日後にJリーグ優勝をかけた最終戦を控え、ワシントン、ポンテ、阿部などをベンチなどにおいて愛媛FCと初戦を戦ったが0-2で敗れ、天皇杯3連覇はなくなった。

その2日後の12月1日のJリーグ最終戦対横浜FC戦。最下位の横浜FC相手とあって勝利しリーグ優勝は確実と言われていたが、0-1と敗戦。勝ち点差1の2位につけていた鹿島アントラーズが勝利したため、歴史的な大逆転優勝を許した。連覇を逃し2位で終了した。

FIFAクラブワールドカップ2007では、2007年12月16日のアフリカ代表のエトワール・サヘルとの3位決定戦でPK戦の末に勝利し、ヨーロッパ・南米勢に次いでアジア勢史上初となる世界3位の座に導いた。 12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。


2008年シーズンに向けて、オフにはドイツ・フランクフルトの高原直泰、大分トリニータから梅崎司アルビレックス新潟からエジミウソン、レッドブル・ザルツブルクからアレックスが復帰、と大型補強を敢行し、2年ぶりのリーグ優勝へ向け、早くも動いている。また、「ミスター・レッズ」福田正博がコーチとしてチームに復帰している。

3月16日、リーグ戦開幕2連敗を受けて監督ホルガー・オジェックを解任。コーチだったゲルト・エンゲルスを監督に昇格させた。

2010年から、監督にフォルカー・フィンケが就任。

チーム名の由来

浦和が舞台の漫画「赤き血のイレブン」から赤を採用し、ダイアモンドは創設時親会社の三菱のマークの菱形からとり、レッドダイアモンズとなった。 

チーム成績・歴代監督

獲得タイトル

国内タイトル

2ndステージ優勝  2004年

Jリーグ年間優勝  2006年

天皇杯 2005年、2006年

ナビスコカップ  2003年

ゼロックススーパーカップ   2006年

海外タイトル

AFCアジアチャンピオンズリーグ   2007年

個人タイトル

AFCチャンピオンリーグ

・2007年 永井雄一郎 最優秀選手(MVP)

・2007年 ポンテ  得点王

Jリーグ

最優秀選手(MVP)

・2003年 エメルソン

・2006年 田中マルクス闘莉王

・2007年 ポンテ

得点王

・1995年 福田正博 32得点

・2004年 エメルソン 27得点

・2006年 ワシントン 26得点

新人王

・1998年 小野伸二

・2002年 坪井慶介

最優秀監督

・2006年 ギド・ブッフバルト

ベストイレブン

・1995年 福田正博、ギド・ブッフバルト

・1996年 岡野雅行、ギド・ブッフバルト

・1998年 小野伸二

・2002年 エメルソン

・2003年 エメルソン、坪井慶介

・2004年 エメルソン、長谷部誠、闘莉王

・2005年 田中マルクス闘莉王

・2006年 ワシントン、鈴木啓太、闘莉王

・2007年 ポンテ、鈴木啓太、阿部勇樹、闘莉王、都築龍太

ナビスコカップ

・2002年 坪井慶介   ニューヒーロー賞

・2003年 田中達也  ニューヒーロー賞・最優秀選手(MVP)

・2004年 長谷部誠  ニューヒーロー賞

・2006年 ワシントン  得点王

その他

・1996年 フェアプレー個人賞(岡野雅行)

・1999年 Join賞(浦和レッズ、浦和市、レッズファン・サポーター)

・2002年 フェアプレー個人賞(坪井慶介)、Join賞(浦和レッズ)

・2003年 功労選手賞(福田正博、井原正巳)

・2004年 Join賞(浦和レッズ)

・2005年 Jリーグベストピッチ賞(埼玉スタジアム2002)

・2007年 特別賞(浦和レッズ)

・2007年 AFC最優秀クラブ(浦和レッズ)

・2007年 AFCチャンピオンズリーグ フェアプレー賞(浦和レッズ)

・2007年 FIFAクラブワールドカップ FIFAフェアプレー賞(浦和レッズ)

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マスコット

レディア(Redia)  

フレンディア(Friendia)

シャーレくん(Schalekun)

ディアラちゃん(Diarachan)

ダービーマッチ

同じさいたま市内にある大宮アルディージャとの試合が「さいたまダービー」と呼ばれている。

また、鹿島アントラーズとの試合を共に赤が基調色のチームなので「レッドダービー」と呼ぶことがある。ガンバ大阪との試合は優勝争いとなるため、FC東京との試合はサポーターの応援合戦が熾烈なためナショナルダービーであるとする見方もある。

ユニフォーム

チームカラーは赤。主にシャツは赤、パンツは白、ストッキングは黒。 この組み合わせはマンチェスター・ユナイテッドをモデルにしたと言われている。