鹿島アントラーズの詳細情報

正式名称鹿島アントラーズ
所属リーグJ1
国・ホームタウンアジア 日本 茨城 鹿嶋市、神栖市、潮来市、鉾田市、行方市
サポーター数サポーター: 887
コミュニティ登録者:275
ホームスタジアムカシマサッカースタジアム

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鹿島アントラーズの詳細情報・プロフィール

競技サッカー
ニックネーム、通称
ホームスタジアムカシマサッカースタジアム
法人名・運営母体株式会社 鹿島アントラーズ・エフ・シー
代表者大東和美
住所茨城県鹿嶋市粟生東山2887番地
電話番号・FAXTEL: 0299-84-6800
FAX: 0299-84-6825
公式ホームページhttp://www.so-net.ne.jp/antlers/
クラブカラーディープレッド
ユニフォーム(第1)エンジ/紺、紺、エンジ (第2)白、白、白 (第3)金、白、白
マスコットしかお (鹿島神宮の「鹿」。しかこと結婚し、子供にアトンがいる)
設立年月日
鹿島アントラーズの応援歌を見る報告

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クラブの概要・歴史

概要

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

主要タイトル(Jリーグ年間、天皇杯ナビスコカップ)において、Jリーグ史上最多の11冠を誇る名門クラブ(スーパーカップ、A3チャンピオンズカップを含めると15冠)。

2000年シーズンは国内3大タイトルのJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯を全て制し、史上初の3冠を達成。現在の所この3冠を達成したクラブは他に存在しない。

チーム母体は住友金属工業蹴球団。1991年Jリーグ加盟。

チームは、一年ごとのスローガンとは別に「FOOTBALL DREAM」を常に掲げ、地域と共に頂点を目指す。


ホームスタジアムはカシマサッカースタジアムで、練習場は鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドを使用している。

カシマスタジアムの指定管理者にもなり、カシマウェルネスプラザによる健康事業や茨城大学との提携によるスタジアムの利活用、2007年にはファンクラブ事務局を東京からスタジアムに移転するなどさまざまな取り組みを行っている。

また、サッカー以外にもミニバスケットボール、テニスのスクール、剣道教室を開催している。テニス競技とは結びつきが強く、デビスカップ開催時にはアントラーズのボランティアスタッフが試合運営をアシスタントした。

また、監督により戦術を頻繁に変えるチームが多いJリーグにおいて、開幕からほとんどの試合をDFを4人配置する4バックで戦うなどチーム戦術に一貫性のある数少ないチームである。

ジーコが所属していたこともあり、ブラジルのサッカー界とも強いパイプを持つ。Jリーグが開幕した1993年以降、所属した外国籍選手は全員がブラジル人選手(2007年現在)である。その中にはジョルジーニョやレオナルド、ベベットなど、サッカー王国ブラジルでも一線級に値する選手たちが鹿島でプレーしていた。

歴史

太平洋戦争後の間もない1947年、空襲の爪跡を残す大阪市に住友金属蹴球同好会を創部した。1956年には住友金属蹴球団に改称。1973年に日本サッカーリーグ2部に昇格。1975年に茨城県の小さな町だった鹿島町(現・鹿嶋市)に移転した。さらに1部昇格を狙うには、いろいろな苦労があった。当時、他の実業団チームは契約制を導入し始めていた。外国人選手をはじめ国内でも実力の高い選手と契約を交わしてプロとしての意識づけを行い、レベルを高め、戦力の強化を達成してきた。

しかし、住友金属は徹底したアマチュアイズムを貫いており、また社内にはほかに多くのスポーツ団を抱えていたので、蹴球団だけを特例としてノンアマチュア化(プロ化)することはできなかった。

1985年、1部への昇格を果たす。しかし結果は12チーム中11位と再び、2部リーグに降格せざるをえなかった。 1986年には、1部への返り咲きを果たした。しかし1部リーグでは12チーム中10位。翌年には12チーム中11位とまたしても2部に降格した。転機となったのは1989年。プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立が具体化され、住友金属蹴球団もプロリーグ参加を表明。しかし「2部リーグのチームの力じゃ、プロリーグでやっていけないだろう」、「人口が少なくサッカーが盛んとはいえない鹿島で観客を集めることは困難」と誰もがそう思っており、さらに当時のJリーグ理事長・川淵三郎からは「とにかく住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99.9999%ダメだ」と言われたが、住友金属蹴球団は、「まだ0.0001%の可能性はあるんですね」と言い返した。その後、1人のブラジル人がやってきた。それがブラジルが生んだスーパースターで、元ブラジル代表主将ジーコ(元日本代表監督)である。ジーコが加入してきたのは1991年(川淵三郎によると、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。当時チームは2部リーグに甘んじていたが、ジーコのスーパープレイは他チームの選手を翻弄した。そして、日本初の本格的サッカー専用スタジアムとして建設されたカシマサッカースタジアムをホームスタジアムとして、念願だったJリーグ加盟をJリーグ発足初年度に果たし、チーム名も「鹿島アントラーズ」と改称、プロクラブとして新たなスタートを切った。


初代監督には本田技研サッカー部の宮本征勝が就任。選手も長谷川祥之や本田泰人などJリーグ入りを断念した本田技研の選手を中心に補強。ジーコ・アルシンドなどブラジル人選手を中心にJリーグ開幕を迎えた。5月16日に行われた開幕戦はカシマスタジアムに名古屋グランパスエイトを迎えたホームゲームで「ジーコとリネカーの対決」が注目されたが、ジーコのハットトリックとアルシンドの2ゴールで5-0で圧勝、白星スタートを切った。旧本田勢に加えて大卒新人の秋田豊がレギュラーを獲得し、勢いに乗ったチームは開幕シリーズである1993年1stステージを制覇。しかし、1994年1月に国立競技場で2試合が行われたJリーグチャンピオンシップでは2試合で1分1敗となり、初代年間王者はヴェルディ川崎に譲った。第2戦ではジーコがPKの際にボールへつばを吐く遅延行為で退場(この日2枚目の警告)となり、大きな話題となった。また、開幕戦の圧勝から 1stステージ優勝に至る快進撃により、鹿島町は「サッカーの町」として全国に認知され、周辺人口の少なさから低調な観客動員が危惧されていたカシマスタジアムは毎試合超満員となり、チケット入手が非常に困難なスタジアムとして知られるようになった。


1994年のサントリーステージ(1stステージ)終了後にジーコは現役を引退したが、その後もテクニカル・アドバイザーとして鹿島に深く関わり、実兄のエドゥーが宮本の後任監督として指揮を執った。また、ジーコの「後任」としてアメリカW杯にブラジル代表として出場したレオナルドやジョルジーニョ が加入し、彼らの活躍で鹿島は強豪としての地位を築いていった。これ以後も鹿島にはジーコの人脈を生かした優秀なブラジル人選手が加入し、チームを勝利へ導いた。これは、J1に在籍経験のあるJリーグクラブの中で、鹿島が唯一ブラジル国籍以外の外国籍選手を獲得した事がない歴史につながっている。1994 年シーズンのリーグ戦でアルシンドが、鹿島でのシーズン最多の28得点(2007シーズン現在も継続中)を記録。


1シーズン制で行われた1996年にはジョアン・カルロス監督により初めての年間王者に輝き、得失点差の関係で最終節を待たずに事実上優勝が決まった同年11月6日のカシマスタジアム(第29節、鹿島4-2名古屋)は歓喜に包まれた。しかしチャンピオンズファイナルでは決勝戦で名古屋グランパスに敗れ96年シーズンの完全優勝を逃した。V川崎からビスマルク、ベルマーレ平塚から名良橋晃が移籍して戦力が更に充実した1997年には、ヤマザキナビスコカップと天皇杯を初制覇して「カップ・ダブル」を達成。サントリーステージ(1stステージ)優勝により出場したチャンピオンシップではジュビロ磐田に2連敗し、特に2戦目のカシマスタジアムでの敗北後には怒った観客がピッチ上での表彰式に乱入するという失態も演じたが、Jリーグは鹿島と磐田の新たな2強時代に入った事を日本のサッカーファンに印象づけた。

1998年シーズン中断中にジョアン・カルロスとジョルジーニョとの意見が合わず、ジョアン・カルロスをクラブ初のシーズン途中に監督解任、中断明けの1stステージの残りを関塚隆が監督代行として指揮をとる。9月23日に長谷川が清水戦で、クラブ初の在籍通算100得点目(通算130得点/2008年3月12日現在も継続中)を達成。2ndステージ開始前にゼ・マリオ監督を招いて優勝し、チャンピオンシップでは磐田を下して、2度目のリーグ年間優勝を果たした。この年のリーグ戦で柳沢敦が、鹿島での歴代日本人選手のシーズン最多得点(22得点/2007シーズン現在も継続中)を記録。また、同年のフランスW杯では日本代表に鹿島から秋田・名良橋・相馬直樹の3人が選ばれ、いずれも日本が戦った全3試合に出場した。

1999年にはカシマスタジアムの改修工事が始まり、1stステージの主催試合は東京都新宿区の国立競技場で行うようになった。また、一部の試合は石川県西部緑地公園陸上競技場(石川県金沢市)や富山県総合運動公園陸上競技場(富山県富山市)でも行われ、富山の試合では同県出身の柳沢がゴールを決めた。1998ー99年シーズンのアジアカップウィナーズ選手権は3位を獲得も、この年の優勝はシーズン冒頭のゼロックス・スーパーカップのみで、不振に陥ったクラブはゼ・マリオ監督を解任し、2ndステージ途中からはジーコが総監督として指揮を執った。9月23日のジェフユナイテッド市原戦での長谷川の得点により、Jリーグクラブ最速のリーグ戦通算500得点を達成した。


2000年にはジーコの盟友ともいうべきトニーニョ・セレーゾが監督に就任(2005年までの6年間監督を務めた)。ナビスコカップ、Jリーグ年間王者、天皇杯で優勝しJリーグ発足以来初の日本サッカー三冠(国内では、日本リーグ時代の日産自動車に次いで2チーム目)を獲得した。

2001年には、2000年シーズンの三冠達成を称えて茨城県から県民栄誉賞を受賞した。しかし、このシーズンの1stステージは前年の天皇杯で負傷した相馬直樹など主力選手の怪我が相次ぎ、まさかの11位と低迷する。続く2ndステージでは相馬の穴を埋めるべく加入したアウグストの活躍で優勝を果たし、チャンピオンシップで磐田を破り、2年連続リーグ年間優勝となった。この年に象徴されるように、年間王者には最多の5度輝いている鹿島だが、その中で年間総合の勝ち点で1位になったのは1ステージ制の1996年と2007年、それに1997年(磐田と同点、得失点差で優位)の3度しかなく(磐田とV川崎も3度)、逆に2ステージ制時代に年間総合勝ち点で1位だったのにタイトルを逃した年はない。リーグ戦で安定した成績を残してきたライバル磐田に対して、鹿島はここ一番での勝負強さ、特にシーズン後半の好成績が光るチームである。このことがJリーグクラブとして最多の11個(2008年 1月1日当時)のタイトル獲得をもたらした。

2002年には、リーグでは絶好調の磐田を止められずに3連覇を逃したが、ヤマザキナビスコカップは決勝で初タイトルを狙った浦和レッドダイヤモンズを1-0で下し、優勝を果たした。また、2002 FIFAワールドカップの試合がカシマスタジアムでも行われ、鹿島も日本代表に秋田・鈴木隆行・柳沢・中田浩二小笠原満男曽ヶ端準の6人(クラブ別では最多)を送った。鈴木は初戦のベルギー戦でゴールを決め、鹿島所属として初のW杯得点者となった。大会終了後にはジーコが日本代表監督に就任し、テクニカルディレクターを辞任した。また、鈴木もベルギー1部リーグのKRCヘンク(ゲンク)へ移籍した。その一方、拡張されたカシマスタジアムでは空席が目立ち、改修前の定員すら下回る観客数の試合が多くなっていった。


2003年ではA3チャンピオンズカップ初代王者を獲得。ヤマザキナビスコカップでも2年連続決勝に進出するも、浦和レッズに0-4で敗れて連覇はならなかった。リーグ戦では最終節にまたしても浦和レッズに優勝を阻まれ(後半ロスタイムにマルシオ・エメルソン・パッソスにゴールを許して引き分け)、あと一歩のところで優勝を逃した。以後、Jリーグ初の10個目のタイトル、「十冠」の達成が鹿島の悲願として掲げられた。


2004年シーズンは優勝争いに関われずに終わったが、J1が1ステージ制に移行した2005年は開幕ダッシュに成功し、一時は2位に勝ち点差10以上をつけるなど優勝争いを引っ張っていった。しかし、中盤に入るとガンバ大阪や浦和レッズ、ジェフ千葉、セレッソ大阪に追いつかれてしまい、優勝の可能性が残っていた最終節では勝利したものの、結局3位でシーズンを終えた。この2年間はヤマザキナビスコカップや天皇杯でも早期敗退が続き、中田浩二の移籍問題も発生して、チームは過渡期を迎えた。


2006年シーズンは、ブラジルの名門サンパウロFCをFIFAクラブ世界選手権(現:FIFAクラブワールドカップ)優勝へ導いたパウロ・アウトゥオリ監督が就任。更にFWの柳沢敦が復帰、高卒ルーキーのサイドバック内田篤人の活躍などがあったが、シーズン途中に大黒柱だったMF小笠原満男がFCメッシーナ(イタリア)へ翌年6月までの期限付きで移籍してしまった。チームは2点以上失点するゲームが多く、リーグ戦での成績は伸び悩んだ。一方でヤマザキナビスコカップでは3年ぶりに決勝に進出したが、十冠がかかった決勝でジェフ千葉に敗戦。4年振りの同杯獲得はならなかった。天皇杯では、同年限りで引退を表明した本田泰人を優勝で送り出そうとするも準決勝で浦和レッズに敗れた。結局、パウロ・アウトゥオリ監督は1年で退任し、ブラジルへ帰国した。


2007年シーズンは、コリンチャンスを率いて2000年の世界クラブ選手権(現クラブ・ワールドカップ)を制覇し、サンパウロ、サントスなど名門クラブの監督を歴任しているオズワルド・オリヴェイラ(ブラジル)を新監督に迎えた。プレシーズンマッチで野沢拓也が負傷し、シーズン開幕から5節は勝ち星がなく(3月3日の開幕戦で川崎フロンターレ、3月11日の第2節でガンバ大阪にどちらも0-1で敗戦した後3試合引き分け)、野沢が復帰した第6節(4月14日)の横浜FC戦でようやくシーズン初勝利を挙げた。その後は復調し、5月12日の磐田戦でJリーグ史上最速の公式戦通算400勝、6月16日のサンフレッチェ広島戦で本山雅志のゴールによりホームゲーム通算500得点を達成した。

7月3日には期限付き移籍が終了した小笠原満男の復帰が発表された。復帰した小笠原はヤマザキナビスコカップ準々決勝での勝利に貢献した。7月29日には前年に引退した本田泰人の引退試合が、1993年のJリーグチャンピオンシップの出場メンバーを中心にした「鹿島アントラーズ1993対ヴェルディ1993」(4-2で鹿島アントラーズ1993の勝利)としてカシマスタジアムで開催された。

Jリーグ発足以降初めて、日本代表が参加した主要な国際大会に所属選手を送らなかったアジアカップの中断を経て、8月12日の第19節から再開されたJリーグでは、同節のヴァンフォーレ甲府戦で野沢拓也のゴールによりJリーグチーム史上最速のリーグ戦通算900得点を達成した。以後、鹿島は調子を上げ、9月22日の新潟戦以降はJリーグでの連勝を続けた。ヤマザキナビスコカップでは10月に行われた準決勝でG大阪に1勝1敗となり、アウェーゴール数の差で敗退した。優勝争いをしていたガンバ大阪と浦和レッズの不調が続き、11月24日には一時期勝点差11をつけられていた首位浦和との直接対決で1-0で下して2位に浮上した。これは史上最速のリーグ戦通算300勝でもあった。そして、12月1日、リーグ最終節で清水エスパルスを3-0で下して、延長戦廃止後のJリーグ最多記録となる9連勝を記録し、横浜FCに敗れた浦和レッズを勝ち点で逆転し、6年ぶりのリーグ優勝、同時にクラブの悲願だった「10冠」を達成した。

年間でA代表戦に出場した選手が一人もいないクラブの優勝はJリーグ史上初めてで、最終節まで一度も首位に立たなかったチームが最終節で逆転優勝したのもJリーグ史上初めて。1シーズン制でのリーグ戦通算22勝は、チーム最多勝となった。


2008年1月1日、Jリーグ発足後史上初3度目の優勝をかけた天皇杯決勝は、サンフレッチェ広島と対戦し2-0で勝利。リーグ戦との2冠を達成した。1月9日、鹿嶋市からJリーグ発足史上最多の11冠達成を称え、特別功労賞を贈られ、2月1日には茨城県から県民栄誉賞(2000年度以来2度目)を授与された。

チーム名の由来

アントラー (Antler)は英語で鹿の枝角を意味し、鹿島神宮の神鹿にちなみ、枝角は茨城県の茨をイメージしている。その鋭い枝角で勇猛果敢に立ち向かい勝利を目指すという意味も込められている。

歴代監督

宮本征勝(1992 - 1994前期)

エドゥー(1994後期 - 1995)

ジーコ(1999)(総監督&監督代行)

ジョアン・カルロス(1996 - 1998途中)

ゼ・マリオ(1998後期 - 1999後期途中)

関塚隆(監督代行)(1998.7、1999.12)

トニーニョ・セレーゾ(2000 - 2005)

パウロ・アウトゥオリ(2006)

オズワルド・デ・オリヴェイラ・フィリョ(2007 - )

獲得タイトル

国内タイトル

Jリーグ年間優勝   1996年、1998年、2000年、2001年、2007年、2008年 1stステージ:2回   1993年、1997年

2ndステージ   1998年、2000年、2001年


天皇杯   1997年、2000年、2007年


ナビスコカップ   1997年、2000年、2002年


ゼロックススーパーカップ   1997年、1998年、1999年

海外タイトル

A3チャンピオンズカップ   2003年

個人タイトル

Jリーグ

最優秀選手(MVP)

ジョルジーニョ  1996年


新人王

柳沢敦  1997年


最優秀監督

ジョアン・カルロス  1997年

オズワルド・オリヴェイラ  2007年


ベストイレブン

大野俊三、サントス、本田泰人  1993年

相馬直樹  1995年

相馬直樹、ジョルジーニョ  1996年

相馬直樹、秋田豊、ビスマルク  1997年

相馬直樹、秋田豊、柳沢敦  1998年

高桑大二朗、秋田豊  2000年

秋田豊、名良橋晃、小笠原満男、中田浩二、柳沢敦  2001年

曽ヶ端準、小笠原満男  2002年

小笠原満男  2003年

小笠原満男  2004年

小笠原満男  2005年

岩政大樹  2007年  


ナビスコカップ

ニューヒーロー賞

鈴木隆行  2000年

曽ヶ端準  2001年


最優秀選手(MVP)

ジョルジーニョ  1997年

中田浩二  2000年

小笠原満男  2002年


その他


功労選手賞

ビスマルク  2005年

相馬直樹  2006年

本田泰人  2007年


フェアプレイ個人賞

相馬直樹  1998年

曽ヶ端準  2003年


ベストピッチ賞

カシマサッカースタジアム  2003年


県民栄誉賞  2001年、2008年

特別功労賞  2008年