三浦知良 

名前三浦知良 
国籍・出身日本 静岡 
生年月日1967/02/26 (50歳)
所属チーム横浜FC
ポジションFW

三浦知良の詳細情報・プロフィール

競技サッカー
身長・体重身長: 177.0 cm / 体重: 72.0 kg

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経歴

'''幼年期'''

1967年、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父につけられたものだという。1973年、静岡市立城内小学校に入学した。

小学時代には、静岡市のゴールというスポーツショップを経営する伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚し、三浦姓を名乗るようになった。

'''ブラジル時代'' ' 1982年、私立静岡学園高校を、1学年修了を待たずして中退。ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学。その後ブラジル中を渡り歩くことになる彼の出発点であった。なお、ブラジルへ渡った1982年は、三浦和義がロサンゼルスで銃撃されて妻を失い悲劇の主人公として報道されてから間もない時期だったため、母から「同姓同名の人がロスで事件に巻き込まれたから、気をつけなさい。」と声をかけられたという。

1985年、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場。SBSユースに、キンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋。当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った。

1986年2月、サントスFC(カンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国選手権の古豪)とプロ契約。しかし1年間で出場できたのは1部リーグ2試合だけに留まり、チームの足を引っ張り現地のマスメディアから「サントスのウイングが日本人に務まるわけがない」と叩かれ、半ば戦力外という形で放出され5月にはパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国を果たした。

その年の10月にはパラナ州のソシエダージ・エスポルティーバ・マツバラへレンタル移籍し、1987年2月にはマツバラと正式契約を結び、南部三州リーグ優勝に貢献。

10月、アラゴアス州のクルベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍し、日本人で初めてブラジル全国選手権に出場。この後、カズの代名詞となる高速ドリブルを磨いていった。

1988年、サンパウロ州選手権のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。日本人として、リーグ戦初ゴールをコリンチャンス戦で記録した。このときの試合はテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った。クラブでの活躍により、カズはジャウー市から名誉市民賞を贈られている。

1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献。

1990年2月、満を持してサンパウロ州のサントスFCへ再移籍。1987年にマツバラへレンタルされた時からもう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたカズは、誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍だった。

'''日本への凱旋〜欧州移籍'''

ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していたカズは、1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本リーグ・読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、期待とは裏腹に、クラブでは日本のサッカーになじめずなかなか活躍できなかったが、徐々に日本のサッカーに慣れ、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれ読売 = 川崎の黄金期を築いた。1992年日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞に続き1993年、日本人最高の20得点を記録しヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞した。日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。

プロとして築いた数々のキャリアを引っ提げて、1994年にはイタリア・セリエAのジェノアに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。ACミランとのセリエAデビュー戦において、フランコ・バレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼下系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。復帰後、サンプドリアとのジェノヴァダービーで先制点となるゴールを奪う(試合は2-3の敗戦)。しかし結局ゴールはこれのみで、21試合出場に留まった。また、ジェノアとの契約は当初から、チームの戦力補強として合意に至ったというよりも、ジェノアのユニフォームスポンサーとなったケンウッドの後押しで実現したとも言われている。

カズの移籍は当時ヴェルディのオーナーであった渡邉恒雄との、1年限定との約束(レンタル)であったため、セリエAの他のチーム、スペインリーグ、スイスリーグ、ポルトガルリーグのチームからオファーが来ていたといわれるが、シーズン終了後にはヴェルディへ復帰することとなった。

その後、1995年は2ndステージからの復帰で得点ランキングの上位に入り、また1996年には得点王になるなど活躍したが、1997年頃から本来のスピードやキレがなくなり、得点数は減少。チームも年々勝てなくなっていった。

1998年末、川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍を決意した。ザグレブでは、アシストのみでゴールは挙げられなかった。そのシーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるアルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。

'''Jリーグへの復帰〜現在'''

1999年7月、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた、京都パープルサンガに移籍。

2000年には33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど、残留争いをするチームでシュートのチャンスがほとんどないにもかかわらずストライカーの役割を十分に果たしJリーグ猛打賞を受賞する。しかしこのシーズン、京都は降格し「カズを2部チームに在籍させるのは失礼である」という理由で自身2回目であるゼロ円提示を受ける。

2001年からはヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。得点に関しては、1年目は11得点を記録し、健在ぶりをアピールしたが、その後は4年間で僅か13得点といった結果しか残せなかった。ただし、毎年秋口にはゴールを重ね、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たした。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。

2005年は、開幕三試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。最終的に新監督によるチーム構想から外れ、シーズン途中の2005年7月、横浜FCに移籍した。

横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズは放映権を取得していた日本テレビの意向によりゲストプレイヤー枠で起用され、リーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。特にこの時の2得点はラインの背後に抜け出てのゴールということで、本人もヴェルディ時代以来の裏への飛び出しで決めたゴールと述懐している。カズはゲストプレイヤーとしての4試合出場で予定通りにチームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では2試合に先発出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦に勝ち6チーム中5位となった。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。

2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。ちなみに現役にこだわる姿勢のため、Jリーグの監督に必要な指導者ライセンスを所持していない。このシーズン、39試合に出場、僅か6得点を記録したのみとはいえ、「予想外の躍進」と言われた横浜FCのJ1初昇格に貢献した。

2007年はシーズン全34試合中24試合に出場。9月15日、サンフレッチェ広島戦では日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。

12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから決勝点をアシストして浦和の優勝を防いだ。 なお、浦和にかわって優勝したのはヴェルディ時代のライバルである鹿島アントラーズであり、このとき初めてカズは一部の鹿島サポーターから「キング」と崇められることになった。

2008年はシーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節 愛媛FCとの試合にて、待望のシーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。2009年も横浜FCと契約、第2節 ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点は、この1得点のみに終わった。

プレースタイル

エピソード

所属クラブ

1982年 ジュベントス(ブラジル)

1982年 - 1985年 サントスFC(ブラジル)

1986年 SEマツバラ(ブラジル)

1987年 CRB(ブラジル)

1987年 - 1988年 キンゼ・デ・ジャウー(ブラジル)

1989年 コリチーバ(ブラジル)

1990年 サントスFC(ブラジル)

1990年 - 1994年7月 読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎

1994年7月 - 1995年7月 ジェノア(イタリア)

1995年7月 - 1998年 ヴェルディ川崎

1999年 - 1999年7月 ディナモ・ザグレブ(クロアチア)

1999年7月 - 2000年 京都パープルサンガ

2001年 - 2005年7月 ヴィッセル神戸

2005年7月 - 10月 横浜FC

2005年11月 - 2005年 シドニーFC(オーストラリア)(期限付き移籍)

2006年 - 現在 横浜FC

個人成績

出場大会

代表歴

国際Aマッチ 91試合 56得点(1990年 - 2000年)