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マラドーナ|フエンテ東久留米オフィシャルブログ by LaBOLA

マラドーナ

2020/12/03 10:17

32番、志藤です。

先日、マラドーナが亡くなった。
なんと言っていいか。
だって、あのマラドーナだ。

マラドーナ!マラドーナ!マラドーナ!だ。

子供の頃、父親と夜中見ていたNHK。
90年伊大会の再放送だった。アルゼンチン、マラドーナといえば86年だが、僕の中では90年伊大会が思い出深い。カニーヒアとマラドーナのコンビ。中でも、ユーゴスラビアvsアルゼンチンが一番面白かった。この試合は0-0のままPK戦でアルゼンチンが勝利する。ちなみに、この時のユーゴスラビアといえば、監督はオシム、中心たる選手はストイコビッチなのだ。正直、ユーゴスラビアの方が僕にとってはグッときた。素晴らしいチームだった。
自国のナショナルチームでイタリアに降り立ったマラドーナに対するブーイング、複雑な表情のマラドーナ。そんなシーンもあった。

それ以来、小さい頃からドリブラーに憧れたことは言うまでもない。
小学生の頃、マラドーナやストイコビッチに憧れていたにも関わらず、オルテガといじられ、頭に来てそいつにスライディングで報復したことを覚えている。オルテガだって頑張っているんだ。

何はともあれ、アルゼンチンのサッカー選手が好きだ。リケルメ、アイマール、サビオラ、ダレッサンドロ、そして、メッシ。片や、不思議と、ブラジルで好きな選手はパッと思い出せない。唯一、脚の曲がった天使と呼ばれたガリンシャは好きだったと思う。彼は生まれつき脚に障害を抱えていた。そんな選手がいたのだ。


近代サッカーでは、戦術、フィジカルが完璧なまでに求められている。最近では、10番の様な選手が少なくなったと言われている。マラドーナといえば、ザ・10番だ。

いずれにしろ大事だと思うのは、サッカーも人間がするスポーツだということだろう。観る側も人間だ。
戦術やフィジカルをインストールされ、よりシステマチックに、ましてや奴隷の様に行うサッカーは本当に面白いのか。試合に勝てば、それは全て肯定されるだろうか。サッカーをやるのは兵隊か、それとも人間か。故に10番のプレーは昔からフットボーラーを魅了する。それは、言語化するのは難しい。感性や芸術は人間にしかできないからなのか。所謂、センスだ。


何故か、今、80年代や90年代のサッカーを観る方が楽しい時がある。選手一人一人のパーソナリティが高い。プレーにも人間性にも個性がある。愛嬌だ。
時折、今も問題児と言われる様な選手。個性的な選手が多く愛されていた時代でもあるのだ。
カントナ、ジョージベスト、ロマーリオ、エッフェンベルグ、ボバン、ロイキーン、ベルカンプ、、、

そして、一際、アルゼンチンには、その個性を感じる人も多いのではないだろうか。アルゼンチンではずっと、一対一のドリブル練習をさせるという逸話も良く聞いたものだ。アルゼンチンに渡ってサッカーに携わった人から良く聞くのは、同国では感情や個性について、深く重きを置いてると聞く。それはサッカーのスタイルだけではなく、彼らの文化や民族性からも生れる現象なんだと思う。あくまで、僕個人の見解だが、人間性に対する掘下げが深いように感じる。そして、巡り巡って、彼らのその中心たるアイコンは勿論、マラドーナなんだろう。

彼ほどに、人間性でプレーしていたサッカー選手もなかなかいないだろうと思う。最後まで人間臭いサッカー選手だったなと思う。良いことも悪いことも沢山しただろう。上手にやるのではなく、包み隠さずおもいっきり生きていたマラドーナは、勝新太郎や昭和の名優のように思えたりもする。

サッカー選手にも、常にコンプライアンスは付き纏う。勿論、やって良いこと悪いことはあるんだろう。
ただ、サッカーも人間がする。そして、AIやロボットも人間ほどはサッカーができないだろう。
最先端の戦術や肉体の進化も刺激的だ。
ただ、どういう人間がサッカーをしているのか、それを観る時代もやって来るかもしれない。
とかく日本においても、スポーツの中のサッカーではなく、サッカーもひとつの文化となっても良いのだ。


そんなサッカーの世界で、一際、輝いていたマラドーナという人間がとても好きだった。
彼の左手にかけられた神様の悪戯も、そんな人間臭い彼にのみ与えられた贈り物なのかもしれない。


と、いうわけで、次は、変態なのか人間味を感じるのか分からないけど良い奴、みっちゃん。





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