第二の故郷日本/ストイコビッチの軌跡

  • viva
    2009年05月16日 05:50 visibility9339

ピクシーことドラガン・ストイコビッチ名古屋グランパスエイト監督は日本が本当に好きなようだ..
かつてJリーグ発足当初の1994年から2001年までの7年間名古屋グランパスエイトで選手生活を送った..それは彼が29歳から36歳のまだ油が乗っていた最後の時代にあたる..チームを越えてストイコビッチは好きな選手だ.. ストイコビッチは1990年25歳でW杯イタリア大会のユーゴスラビアのエースとしてチームをベスト8にまで引っ張り上げている..1998年33歳のW杯フランス大会にも出場しベスト16になっている..どう見てもヨーロッパの超一流選手が7年間もの間ヨーロッパや南米のレベルから見ると数段劣る日本でプレーをし続けたのは不思議だ.. しかし日本に留まったストイコビッチの気持ちが痛いほどよく分かる..それは彼がセルビア人だったからである..日本人はセルビア人だからといって特別な感情を持たないし一般に白人に対しては尊敬の念を抱くがヨーロッパでは違う.. ヨーロッパではセルビア人は一種独特の見方をされる..オーストリアの皇太子を暗殺して第一次世界大戦の引き金を引いたのはセルビア人だし何よりも1991年から始まったユーゴ内戦では独立を目指すボスニア・ヘルツェゴビナの住民を虐殺した悪魔の国とヨーロッパではみなされた..実際ストイコビッチ自身もレンタル移籍先のイタリアのヴェローナではチームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラカン・ミロシェビッチ」と罵倒されていた.. 誇り高いストイコビッチがヨーロッパのクラブに愛想を尽かし日本に渡ってきたのは1994年29歳の時だがその後彼はヨーロッパのクラブに戻ろうとはしなかった..日本人のストイコビッチに対する表裏のない声援に彼は初めて安住の地を見出した..「日本はいい..ここは俺の第二の故郷だ」  それに対しヨーロッパでの彼への憎しみが我慢ならなかった..「なぜセルビア人だけが非難される..どっちもどっちじゃないか..俺は二度とヨーロッパではプレーしない」彼はそう誓ったはずだ.. 1999年にNATO軍がユーゴスラビアの空爆を始めた時彼はユニホームのアンダーシャツに「NATOは空爆を中止せよ」と英語で書いてグランドを一周した..ストイコビッチの熱い血潮が騒いだ一場面だった.. 2001年36歳で引退を決意し引退試合としてユーゴ対日本の試合が日本で行なわれ彼はユーゴのエースとして出場した..この試合はユーゴでも放映された..その時の模様を現地にいた旅行者がレポートしていたが日本人がユーゴスラビアの旗を振りストイコビッチに「ピクシー、ピクシー」と惜しみない賞賛をするのを見てセルビア人は皆泣いていたという..そしてその旅行者が日本人だと知るとそこにいた人全員が彼を抱きしめたそうだ..「俺達のことを認めてくれるのは日本人だけだ」  日本には優秀なセルビア人が来てくれる..オシム前代表監督もそうだがオシム氏は1990年のイタリアW杯のユーゴ代表監督..その時のエースがストイコビッチだった.. 嬉しいことにストイコビッチは再び来日し名古屋グランパスエイトの監督を務めている..昨年まで名古屋は低迷していたが今年は快進撃だ..ストイコビッチの監督としての力量がたしかなものであれば岡田代表監督の次はストイコビッチの呼び声が高くなるだろう..  ストイコビッチは思っているはずだ..「セルビアか日本の代表監督になってヨーロッパを見返してやる」日本を第二の故郷としているストイコビッチが日本をW杯でベスト8まで引き上げてくれたらと..

確かにJではピクシーは抜きん出ているだろう..リトバルスキーもこの前スペインでも紹介されていたし..アルゼンチンのラモンディアスこれまた大変な選手だった..今大物と呼ばれる選手が誰も来なくなってしまった..最後の大物はピクシーで終わってしまうのだろうか..
その時代時代に確かなストーリーを作ってきた選手のみが後のレジェンドに成りうる選手だということだろう..

ストイコビッチの軌跡
ストイコ ビッチ  

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