メキシコ対アルゼンチン戦

  • viva
    2008年06月07日 18:08 visibility204

アメリカのサンディエゴで4日に行われた親善試合..メキシコリーグの充実と言うものはすばらしいのだが国内の環境が良くなりすぎで海外志向もあるようであまりない..中南米の各国の代表クラスがチームにいるがなかなかヨーロッパの3大リーグからお呼びがかからないまたは舞い戻ってきた選手達..だからと言ってメキシコ代表が落ち目だとは思いたくないのだが監督の力量で左右されるのもメキシコ代表の特徴のようにも思える..今回も監督は臨時監督のようなもの..オランダ人の監督になるとかならないとか..メキシコ人の多い西海岸で完敗するとは情けないとの妻のコメント..メキシコでも最初のゴールでダメだという感じだったらしい..
Argentina 4 vs Mexico 1 - Amistoso 4 de junio 2008  

2004年コパ。アメリカで勝ったのが公式戦唯一の勝利メキシコが苦手としているアルゼンチン..今回は完敗です..
アルゼンチンの若手にゴールを決められる..
公式戦でがんばって欲しいものですが..前監督のウーゴ.サンチェス..まさに全日本代表監督のジーコ状態その後苦しんでいます..

セルヒオ・レビンスキー氏のコラムから

ウーゴ・サンチェス、イメージの失墜恐らくウーゴ・サンチェスにとって、2008年3月31日は自身のキャリアの中で最悪な日となったに違いない。この日、メキシコフットボール協会は、国民的英雄で世界でも名声をはせた選手の1人だった男から、代表監督の地位を奪い取った。リーガで5回得点王に輝いた栄光の日々
サンチェスは80年代にスペインで活躍し、メキシコ最高のストライカーと称された。1981年、メキシコのUNAMプーマスからアトレティコ・マドリーに移籍すると、4年後にはレアル・マドリーに活躍の場を移し、黄金時代を築いた。当時のレアル・マドリーはエミリオ・ブラトゲーニョ、マノロ・サンチス、マルティン・バスケス、ミチェル、ミゲル・パルデサの5人による「キンタ・デル・ブイトレ(ハゲタカ軍団)」が中心となって隆盛を誇っていた。

サンチェスもリーガ・エスパニョーラで5回の得点王に輝き、ゴールを決めると宙返りパフォーマンスを行うことでも人気を博した。そして何より、サンチェスは母国メキシコの人たちを熱狂させたのだった。当時のメキシコは代表チームでもクラブチームでも、サンチェスほどの栄冠と地位を獲得することは不可能だったからだ。

サンチェスはすべての広告や雑誌の表紙を独占した。当時のメキシコフットボール界において、彼以外に海外でプレーしている選手はほとんどいなかった。今も昔も、国内クラブのサラリーは十分満足できるレベルであったし、何より海外移住という伝統がメキシコにはなかったからだ。

 サンチェスの場合、当時のアトレティコ・マドリーの会長が、このメキシコ人ストライカーを気に入るという幸運があった。会長は最初、クルス・アスルのマルドナードの視察にメキシコへ行ったのだが、プーマスに所属していたサンチェスが目の前で連続ゴールを決め、強烈な印象を残したのだった。結局、アトレティコはサンチェスを獲得し、そこからマニート(サンチェスの愛称)の栄光の歴史が始まった。とはいえ、スペインでの1年目は活躍できず、周囲はプーマスにとんぼ返りすると思っていた。だが、サンチェスは成功を納めるまでスペインに残ると言い張ったのだった。

サンチェスのW杯になるはずが……
 サンチェスのキャリアで不思議なのは、スペインでの輝かしい実績に比べて、“エル・トリ”(トリコロール=メキシコ代表の愛称)ではそれに匹敵する活躍を残していないことだ。全盛期のほとんどを海外のクラブで過ごしたため、代表にあまり招集されなかったことが理由である。それでも、サンチェスは78年、86年、94年と3回のワールドカップ(W杯)に出場した。

 78年のアルゼンチン大会では、メキシコはグループリーグ3連敗を喫し、勝ち点0のまま帰国の途についた。しかも、西ドイツ戦は0−6の大敗だった。地元開催となった86年大会は、誰もが“サンチェスのW杯”になると信じて疑わなかった。だが、大きな活躍を見せられなかったのみならず、グループリーグのパラグアイ戦では、守護神フェルナンデス相手にPKを失敗。メキシコはベスト8には進出したが、母国の人々を失望させる結果となった。
現役を引退し、指導者となってからのサンチェスは、しばしばメキシコの地元メディアからバッシングを受ける存在となった。2000年に古巣プーマスの監督に就任し、04年には前後期リーグで連覇を達成したにもかかわらず、批判はやまなかった。そもそも、サンチェスは招かれざる客だったのだ。人々はかつての英雄を尊大だと感じ、戦術にも無知だと考えていた。何より、当時のメキシコ代表監督、リカルド・ラボルペへの一連の糾弾キャンペーンにうんざりしていたのだ。サンチェスはラ・ボルペを代表監督の座からひきずり降ろそうと、事あるごとに批判を展開した。アルゼンチン人のラボルペは、かつてGKだった。現役時代に相対した経験もあるラボルペとサンチェスは、ピッチの外でも対立した。

サンチェスは、外国人であるラボルペがメキシコの代表監督に就くことを決して受け入れなかった。06年のW杯ドイツ大会で“エル・トリ”はグループリーグ突破を果たしたが、決勝トーナメント1回戦の相手は、指揮官の母国アルゼンチンとなった。結果は延長戦の末に、1−2で敗退。サンチェスはこうした事態を避けるためにも、代表監督は母国出身であるべきだと主張した。

そして06年11月、ついにサンチェスはメキシコ代表監督の座に就任し、U−21代表(現U−23代表世代)の監督も兼任することとなった。しかし、解任までの1年余り、代表にふさわしい戦術を確立することもなければ、チームとしての形を見せることさえもなかった。サンチェスが就任時に掲げた目標は、CONCACAFゴールドカップ優勝とコパ・アメリカ(南米選手権)ベスト4、そして北京五輪でのメダル獲得だった。07年のコパ・アメリカでは3位に入りメキシコ国民を喜ばせたが、あとの2つは実現しなかった。

07年ゴールドカップで米国に敗れて準優勝に終わったことに加え、さして難関とも思われなかった五輪予選での敗退は、サンチェスの去就を決定的なものにした。それ以前から、代表監督としてのサンチェスの手腕には疑問符がついていた。ラボルペの方がよかったという声も挙がっていたくらいだ。

一流選手は監督としても“本物”か
 サンチェスの代表監督解任によって、メキシコでは「監督論」なる議論が再燃している。すなわち、偉大なる選手が偉大なる監督になるのは極めて難しいということだ。“メキシコ最高のストライカー”は、今回の一件で自らのキャリア、そして母国でのイメージに大きな染みを残してしまった。一流選手が監督としても“本物”であることを証明するのは、並大抵のことではない。

例えば、アルフレッド・ディ・ステファノ、あるいはヨハン・クライフといった天才は、指導者としても輝かしい実績を残した。一方で、ペレは指揮官としてベンチに座るという選択をしなかったし、ディエゴ・マラドーナはアルゼンチンで2クラブを率いたが、ストレスをためただけだった。監督時代のマラドーナは、「俺がやったようにプレーすればいいんだ」という指導スタイルだったという。また、当時の選手たちの証言によれば、監督対選手というよりは、選手同士の扱いだったようだ。

フランツ・ベッケンバウアーの場合は、監督業を早々に切り上げ、マネジメント業の方にシフトチェンジを果たした。06年W杯では大会組織委員長を務め、現在はバイエルン・ミュンヘンの会長に就いている。フランスの生んだ天才、ジネディーヌ・ジダンは引退後も監督業には興味を示していない。彼が尊敬するウルグアイ人のエンツォ・フランチェスコリと同様、現在はテレビコメンテーターとしてフットボールに携わっている。

一流選手が監督業に乗り出す際には、自らのイメージを損なう可能性があることをよくよく考えた方がいいだろう。名声を手にするのは並大抵のことではないが、失うのは一瞬である。ウーゴ・サンチェスのように、わずか1年で輝かしいキャリアを失ってしまうこともあるのだ。

セルヒオ・レビンスキー/Sergio Levinsky
1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして、マドリーの日刊紙『エル・ムンド』やバルセロナのサッカー週刊誌『ドン・バロン』、『FIFAマガジン』、日本の『Number』や『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿している。携帯版スポーツナビでも連載中


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