ブラジル移民100年1908/4/28

  • viva
    2008年04月28日 10:58 visibility161
ブラジルへの最初の移民は明治41年(1908年)。ブラジル政府より補助金を受け、笠戸丸という船に乗って791名・158家族がはるばる海を渡り移民した..それ以降のブラジルと日本の歴史.. なぜ日系ブラジル人の人達が今日本で働いているか..
現在多くの日系人たちは日本人の無理解と偏見に悩まされているそうです..ブラジル日系人は皆、祖母や祖父の国である「日本」に大きなあこがれや夢を描いてやってきたにちがいありませんのに・・・。 文化や生活習慣のちがいに無理解な日本人の偏見や誤解によって日本での暮らしが「夢にみた」ものとは大きくかけはなれてしまっているのが現実のようです..
たぶんこれは一世の移住者達が過大に日本は良い国だすばらしい国だそしてブラジル人は不真面目でダメガイジンだと言うことを言いすぎたせいもあります..よく考えればそんなにすばらしい日本を捨ててまでブラジルに来てブラジル籍にまで変えて愛国主義者のごとき顔をするのもどうかと思う人達にも多数出会いました..
これはどこの移住地に行っても日本語が分からない日系人でもブラジル人のことをケトウ.ガイジン.ドジンと呼ぶのをよく聞きました..ブラジルではジャポネースと呼ばれ日本ではガイジン扱いされる変な目で見られる差別感を感じると言う..
ではどのようにしてやれば夢に見た日本での暮らしをさせてあげられるのか..ブラジル人達は日本では自分達はドレイだとか言う人達もいます..給料が安いなどの不平不満ばかり聞かされます..
もうこちらとしてももうこの答えにはうんざりで日本は決して夢の国でもない嫌なら他のいい国を探すかブラジルに帰ればと..ブラジルが日本よりも何でも良いと言う者が多いのだがその答えにはそれではなんで日本なんかで暮らしているの..ブラジルでこんなことを言えばブラジルはお前を必要としていない嫌ならとっとと帰れと言われるでしょう..日本で暮らしている反日を声高に叫んでいるどこか隣の国の人達みたいになっては欲しくないのですが..そうなる可能性も否定できません..
何処でもそうだが自分で楽しみを見出せないものは何処の国でも不平不満しか言わないのだろう..

日本とブラジルの違いを理解しあって共生の道を探ろうなんてかなり難しいことだろう..日本人でブラジルに暮らしたことのある人ならある程度理解も出来ますがほとんどの日本人はブラジルにも行ったことが無いし
旅行程度ではほとんど無理ですが..まして暮らしたことも無い..ブラジル人とは何者だと永遠に思って終わるのではないでしょうか..

1908年
(明治41年)〜
1914年頃まで
ブラジル
コーヒー栽培により好景気で、コーヒー園での農業労働 者が不足していたのでヨーロッパ諸国などからの移民を広く受け入れてた。
ジャングルでの過酷な労働

日本
日本では労働力が余っており、明治政府の近代化税制で農地を手放さざるをえない農民も多く、移民が推進された 特に日露戦争後は、町には失業者があふれ、農村では中小地主が没落していて、働く場を失った人々が、ブラジルへの移民となりました。 人々は日本での貧しい生活から脱出しブラジルで数年がんばってお金を貯めて、日本に帰国し ようと思っており、一攫千金を夢見て、はるか南米へと旅立って行ったたそうです。

ブラジル
1915年以降
(第一次世界大戦後) 日本からの移民の中に自分達の土地を持とうという動きがでてきて、コーヒーだけでなく、米作りをする人も現れた。
少ない年でも5000人、多い年は2万人以上もの日本人がブラ ジルに移民した
日本人会がつくられ、日本語の新聞も発行されたが、移民のほとんどはいつかは帰国するとの考えで、子どもの教育が問題となり、日本の子どもたちのための学校が、移民たちの手で数多く作られ、教育勅語にもとづく教育が行われた。

日本
日本は深刻な大不況
1918年:米騒動
1923年:関東大震災
1929年:世界恐慌
失業者があふれ出て、日本は国の方針として、過剰労働力を移民としてブラジルなどへ送り続けた。

ブラジル
1933年
ブラジルの文化になじもうとしない出稼ぎ移民に対する反感から、新たな移民の数を制限する法律と、外国語(日本人にとっては日本語)を教えることを制限する法律ができた。
南米航路の、ぶえのす・あいれす丸
第2次世界大戦前後 戦争中、移民は土地の売買を禁止されたり、強制収容所に入れられたりなどの迫害にたえながら、日本が戦争に勝つのをひたすら待っていた
が、敗戦後の荒れ果てた日本の様子を知らされ、ブラジルでの永住を決意せざるをえなかった。(自分たちも生活が苦しいのに、お金を出し合って日本に援助の品物を送ったそうです。)

日本
日本では終戦から2か月の間に多くの労働者が解雇され、これに戦争から帰ってきた軍人満州など海外から引き上げてきた人たちが加わって、失業者数は1324万人にものぼっていた。戦争のため食料の生産力が乏しくなっていて、日本の食糧難は深刻であった。  
こうした事情で移民募集に応募する人たちが多数あり、また敗戦直後から、ブラジルにいた移民は日本から親戚縁者を呼び寄せた。

ブラジル
現代
1990年頃〜
4世5世の時代
成功した移民が開店したサアンパウロの書店には日本語の本が..

戦後ブラジルに定住してゆく決心をした日本人移民は、子どもたちの教育に力を入れるようになり、多くの二世・三世が大学に進学し、高学歴で、医者やエンジ ニアなどが多かった。国会議員やクリチバ(サンパウロ州の南隣のパラナ州の州都)市長などという重職に就く日系人もでて、「勤勉で正直」という高い評価をブラジル人から受けている。 

1990年ごろから、ブラジルは長びく不況で、農家では、作物をつくるための費用のほうが、できた作物の値段より高くついてしまうというようなことになり大学を出ること が保障にならなくなった生計をたてるために海外に出稼ぎに出る人たちが多くなった。

日本
1980年代の日本では、「3K(危険・きたない・きつい)」と呼ばれる仕事を中心に、人手不足となっていった。それをうめていたのは、外国からの出稼ぎ労働者となった。
1990年に入国管理法を「改正」して、日系人はわりあい簡単に日本に入国できるようになり、ブラジルからの日系人が最も多数で、人手不足が解消された。 最近も少子高齢化の問題がありこれに輪をかけて近年ではフリーターという就労スタイルが定着し、若年層の製造業離れが加速していることから若年労働力確保はますます困難になっていくとおもわれます。 これらのことを勘案すると今後、企業におけるバランスの良い雇用形態を構築するためには、外国人労働力を有効に活用することは必要不可欠になってくると思われます。

☆ 必要な労働力 = 現状の労働力+ 外国人労働力 ☆

1997年度の15〜29歳の労働人口は1,638万人に対し、2010年度では1,220万人と400万人強の減少が予測される一方、60歳以上の労働人口は1997年度が910万人に対し、2010年には1,330万人と420万人増加すると予測されています。 資料(1997年は総務庁「労働力調査」。2000年以降は労働省職業安定局推計)

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