フジモリ氏ペルーに到着

  • viva
    2007年09月23日 08:34 visibility644


フジモリ政権下と以前にペルーに滞在していた関係からフジモリ政権化が国の安定をもたらしたことは確かな事実とおもいます..世間ではフジモリ悪人という意見が多いのですが大統領が日系ということで日本人達も結構ペルーの人達から良くしてもらいました..
今回ペルーでの裁判では無罪を祈るのみです..今後のラテン諸国で日本人が事あることにフジモリ氏の事で色々言われるのは結構つらいもの..
Fujimori será extraditado a Perú


フジモリ大統領〜ペルーを救った「もっこす」魂

1.自分は死ぬ気でこの選挙に立った

「ペルーを建設していきたい」、アルベルト(日本名、謙也)フジモリがそう決心したのは1989年頃、ラ・モリナ国 立農科大学学長の任期を終える時期であった。

当時のペルーは、年率7500%というハイパーインフレに襲われ、さらに国土の三分の一をテロリスト組織センデロ・ルミノソが支配し、数万人もの国民がテロの犠牲になるという、まさに国家崩壊の瀬戸際にあった。

アルベルトの決心に、母ムツエは大反対し、泣いて頼んだ。「お前が大統領になったら、(テロリスタに)殺されてしまう」「ママ、自分は死ぬ気でこの選挙に立った。だれも止めること はできないよ.. 思いこんだらどこまでもやり通す、その気性はまさにムツエの故郷の熊本弁で言う「もっこす」そのものだった。ついにムツエはあきらめて、選挙の手伝いをするようになる。

2.正直・勤勉・技術

アルベルトが奇跡的な当選を果たしたときも、ムツエは喜ばなかった。お祝いにかけつけた人に言った。
私はちっともうれしゅうない。考えてもみなさい。今のペルーがどうなっとるか。このペルーのすさんだところを今からどう立ち上げるか。私はそればっかり考えてる。それを考えたら、おめでとうなどと気軽に何べんも言わん方がいい。
ムツエが「少しうれしい」という気になったのは、それから
1年あまりも経ってからであった。「フジモリは真っすぐな人
間で盗っ人をしない」と言う大衆の声が聞えてくるようになった。ムツエが子どもたちをしつける時に、もっとも大事にしたのが、この事だった。
「正直・勤勉・技術」、これがアルベルトの選挙スローガンだった。それはムツエのしつけの根本であり、また日系移民たちの精神でもあった。これに「もっこす魂」を加えて、アルベ ルトはペルーの再建に向かっていった。

3.どうでんこうでん親には迷惑をかけん

ムツエは大正2(1913)年、熊本県河内町白浜に生まれた。女8人の後に男3人が生まれ、その6女である。小学校から帰ると、幼い弟たちの世話や家事の手伝いに明け暮れる毎日だった。卒業の時に、先生から上の学校に行くことを勧められたが、「弟が小さいけん、私がおらんならんとどうします」と言って、親にも相談せずに断ってしまった。

昭和9(1934)年、21歳になっていたムツエに縁談話が持ち上がった。ペルーで仕立物屋をしていた藤森直一が、嫁探しに帰国した。ムツエは後にこの時の決心をこう語っている。

ママたちが従兄弟同士で、(嫁に)いかんかいうて。白浜は貧乏だけ。(姉たちは)嫁に行ってから貧乏ばかりして親泣かせだったから。ヨー(私)は行く。どうでんこうでん親には迷惑をかけん。私は外国に行くと。ペルーに行ったら、自分たちは貧乏したって親には泣きつきゃせんからと言ったの

親の苦労を考えて進学をあきらめたムツエは、今度も父母の負担を軽くしようと、見知らぬ外国に行く決心を固めた。ムツエもまた「もっこす」であった。

4.相次ぐ苦難

しかし、新天地ペルーでも、日系移民は歓迎されざる客であった。1940年5月13日、日系人たちの経済進出に怒った反日暴動がリマ市全域で起こった。暴徒達は日系人の店を襲い、商品を奪い、家財道具を略奪した。警察は見て見ぬふりをしていた。ムツエ達は、古タイヤの修繕屋をしていたが、小さい店だったので助かった
ここにまた日本人より先に鉄道施設などの要員としてすでにペルーに入り込んでいた中国人のクーリーと呼ばれた連中がペルー人をあおったり嘘の情報を流し日本人は危ない連中だと流布した

暴動の直後5月24日には、チョリヨス沖大地震が襲う。当時2歳だったアルベルトは、ちょうどトイレに入っていた。ムツエが飛んできて、アルベルトをそのままも格好で抱きかかえると外に飛び出した。この後、壁のレンガが崩れ、トイレはつぶれてしまった。アルベルトはあやうく命拾いをした。

1941年12月8日(日本時間では9日)、真珠湾攻撃の翌日、ペルー政府はいち早く在留邦人の資産凍結令を発布し、さらに邦字紙の発行停止や日本人小学校の閉鎖を命じ、日系人が5人以上集まることも禁止した。

不思議なことにアルベルトは3歳の時に、店が接収された時の記憶をはっきり持っているという。タイヤが持ち出されたり、機械が運ばれていく様子が、まぶたにはっきり焼き付いていると語る。幼心にそれだけ大きな衝撃だったのだろう。

5.アメリカの強制収容所に送られた人々

アメリカは国内の日系人を強制収容所に入れるだけでなく、南米のおもだった日系人まで、強制収容の手を伸ばした。当初は「西半球の安全に危険を及ぼす敵性外人」という基準で、日系人の私信をペルー警察がアメリカ大使館にこっそり持ち込み、内容を検査したが、危険な活動計画の痕跡すら見つからなかった。
そこで日系社会での指導力や影響力という観点からリストが作成され、合計1,771人の日系人がアメリカでの強制収容所に送られた。直一は自分のような小さなタイヤ修繕屋にまで収容の手が及ぶのか、と不審に思い、その名簿を見せて欲しいと要求した。果たして、そこには直一の名はなく、ムツエは、「名前がないのだから、うちの主人が行くわけにはいきません」と抵抗すると、警官はあきらめて帰っていった。袖の下が目的だったのかもしれない。

アメリカに連行されたペルーの日系人達は、戦争後も帰国する術もなく、そのまま何年もアメリカにとどまった人も多い。またアメリカの日系人とは違って、賠償もまだ行われていない。

6.躾と教育

日本の敗戦で、ペルーの日系人社会にも、この第二の祖国に骨を埋めようという覚悟が生まれた。ムツエも子どもたちをペルー人の学校に入れ直した。授業は100%スペイン語で行われるが、まだ幼いアルベルトはすぐに追いついていった。1951年、リマで1,2を争う国立の名門アルフォンソ・ウガルテ中学校に首席で進学した。
ムツエは、アルベルトたちに「勉強をしなさい」とは言わなかったが、躾には厳しかった。うそをついてはいけない、物は節約しないといけない、人に迷惑をかけてはいけない、あまり寝てはいけない、朝は早く起きなければいけない、、、今もムツエの言葉が子どもたちの耳には残っている。この時の躾が、後に大統領選でのスローガン「正直・勤勉・技術」となった。

また直一は、「自分は商売が下手だからお前たちに財産は残してやれない。だから学校だけは行きなさい。学校さえ出ておけば間違いない」と口癖のように言っていた。
これを受けて、アルベルトも弟や妹たちの勉強をよく見た。
「これからはみんな大学を出なければだめだ。ボクが勉強を見て試験の準備もさせる。」 スペイン語がよくできない直一やムツエに代わって、アルベルトは兄弟の世話をよく見た。互いによく助け合う一家であった。

7.青年アルベルト

1956年、18歳となったアルベルトは中学を首席で卒業し、ラ・モリナ国立農科大学にこれまたトップの成績で進んだ。アルベルトの成績なら、南米最古の名門リマ・サン・マルコス筆頭国立大学にも進めたろうが、ここが長い間、学生運動の舞台となり、また過激派センドロ・ルミノソの温床となったことも、アルベルトの肌に合わなかったのだろう。
61年、大学を首席で卒業し、翌年から教壇に立って、数学を教え始めた。
70年9月から奨学金を得て、アメリカ中西部のウィスコンシン州立大学ミルウォーキー校に留学。翌71年6月に日本訪問を計画していた頃、父直一が倒れた。「兄さんに知らなきゃ」という娘の言葉に、ムツエはきっぱりと言った。
あれは学校をしとるのだから、親の病気を知らすことなどいらん。パパが死ぬならヨー(私)が葬式を出す。
7月17日深夜、熊本の親類の家に泊まっていたアルベルトは「パパ、パパ」と大声をあげた。真っ白い服をきた父が、2、3mの高さの所に現れ、「謙也」とアルベルトの日本名を呼んだという。直一の亡くなった日であった。

8.半年で仮校舎再建

1974年7月、アルベルトはヒグチ・スサナと結婚した。その年、10月にカニエテ大地震が起こり、ラ・モリナ国立農科大学の建物もほとんど倒壊してしまった。復旧予算もなく、大学側はやむなく休講の措置をとったが、教養学部長になっていたアルベルトは「仮校舎を建てて、一刻も早く授業を再開しよう」と立ち上がった。大学の建築科を出たスサナが図面を引き、アルベルトが大学の雇員を指揮して、工事を指揮した。

こうして半年で仮校舎とは言え、研究棟と講義棟が完成した。アルベルトの思い立ったら何が何でもやり遂げる「もっこす」ぶりは、学生や教授、職員から絶大な信頼を得た。
1977年の副学長選挙に立候補し、わずか2票差で敗れたアルベルトは、あきらめずにさらにその上を狙い、84年には学長選挙に当選した。日系人第一号として入学した大学で、ついにこの学長にまで登り詰めたのである。

9.投票箱の革命
80年代のペルーは、中国の文化大革命の影響を受けたゲリラ組織センドロ・ルミノソが武装闘争に入り、軍事政権の失政によるハイパー・インフレーションとも相俟って、ペルー社会の生活水準は60年代前半にまで後退したと言われている。
アルベルトは、ペルーの将来を担う子どもたちが、貧困や飢えの中で、最低限の教育すら受けられない現状に我慢ならなかった。厳しいしつけと教育を通じた「正直・勤勉・技術」こそが未来を開くものとムツエにたたきこまれてきた自身の経験から見ればなおさらであったろう。
88年の半ば頃、7,8人の教授達に呼びかけて、政治運動
「カンビオ・ノベンタ(変革90)」を発足させた。そして自宅やトラクターまで抵当に入れて資金を作り、90年の大統領選を目指した。対立候補から「母親は満足にスペイン語すら話せない」などと誹謗中傷を受けながらも、庶民の中に入り込んで、遊説を続けた。そして圧倒的多数を占める貧しい大衆票を堀こす「投票箱の革命」によって、大統領選に勝利した。

10.非常措置で国家を救う
しかし、いざ政権運営を始めると、議会の非協力、司法の腐敗、行政の非効率、テロの横行、経済の破綻など、あまりにも多くの問題が山積して、改革のきっかけをつかめなかった。
92年4月5日,アルベルトは「憲法停止、国会解散」という
非常措置をとった。アメリカは直ちに新規援助を停止し、欧州
諸国もそれにならった。しかし、ペルーの国民大衆の80%以
上はこの措置を支持した。

これまでテロの容疑者は逮捕されても、ほとんどが証拠不十分で釈放されていた..

非常措置導入後は司法が強化され、センドロ・ルミノソの指導者アビマエル・グスマンの逮捕に成功するや、軍事法廷で終身刑に処した。グスマン逮捕をきっかけに、国内の治安は回復軌道に乗り、96年のもう一つの左翼テログループMRTAによる日本大使公邸占拠事件を解決することによって、テロリスト勢力はほとんど一掃された。
また強力な経済運営によって、かつては7500%だったインフレも99年には0.7%、経済成長率3.8%、失業率は3.8%と健全な姿に戻った。

リマ日本大使公邸占拠事件の記録 
Fujimori explica la Operacion de Rescate Chavin de Huantar
En memoria de nuestros heroes: Chavin de Huantar  

本年4月、アルベルト・フジモリ大統領は、国民から10年の実績を認められて3選を果たした。持ち前の「もっこす」ぶりでアメリカの言うことを聞かないので、クリントン大統領は選挙に不正があったなどと、あからさまな内政干渉を行ったが、その証拠も見つからず、選挙結果を受け入れたOAS(米州機構)諸国の中で米政府の反フジモリ姿勢が浮き上がってしまった。
ゲリラにも、インフレにも、そしてアメリカの圧力にも負けない「もっこす」魂で「正直・勤勉・技術」を貫くフジモリ大統領の姿勢は、母国日本が逆輸入すべきだろう。

フジモリ大統領:孤独な独裁のゆくえ
参考
「ペルー遙かな道 フジモリ大統領の母」千葉境子 中公文庫

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7年ぶりにチリからペルーへ


ペルーで待ち構える軍警..


フジモリ支持者達..


フジモリ支持者の行進..
















































































































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