☆奈良の歴史の扉~郡山高校~

奈良の郡山城は、現在、梅林門、月見櫓、大手東隅櫓、多聞櫓が復元されている。豊臣秀長時代には100万石の領主の城として、それにふさわしい天守や櫓群が建ち、城域も25万平方メートルに及ぶ大規模なものであった。

この郡山城の二ノ丸跡に建てられたのが、郡山高校である。
郡山高校といえば、天理と智弁学園の2強が覇権を争う奈良において、春夏合わせて甲子園出場12回と公立校として唯一健闘している高校といえよう。

 

 

郡山高校は1876年(明治9年)創立の郡山師範予備校を源流とし、奈良県尋常中学校と改称された1893年(明治26年)10月1日を創立記念日としている。これは奈良県内の高校では最も古い歴史である。また、郡山高校は話題の京大にも合格者を輩出している奈良県屈指の進学校でもある。

野球部は1897年(明治30年)に創部され、こちらも奈良県最古の歴史を誇る。ちなみに、夏の予選皆勤校である、時習館、桐蔭、関西学院や他にも八戸、仙台一、前橋、県千葉、獨協、横浜商、韮山、高田(新潟)、大垣北、岸和田、姫路西、岡山朝日、津山、日彰館、丸亀、明善、猶興館、大分上野丘の野球部がこの年に創部されている。
夏の予選には1918年(大正7年)第4回大会予選に初参加し、奈良県内では奈良師範に次いでの参加であった。
夏の予選初勝利も1918年(大正7年)第4回大会予選で、奈良師範を 11-10 で破っての勝利であった。
夏の予選初の決勝進出も1918年(大正7年)第4回大会予選であった。しかし、和歌山の強豪・和歌山中に 1-3 で敗れた。
郡山中として初参加した第4回夏の予選は、奈良予選を勝ち上がったチームと和歌山予選を勝ち上がったチームとで紀和大会を戦い代表を決める形式であった。尚、奈良予選に参加したのは郡山中と奈良師範、和歌山予選に参加したのは和歌山中と田辺中であった。

これ以降、郡山のみならず奈良県勢は和歌山県勢の厚い壁に阻まれ続けることとなった。
そして迎えた1933年(昭和8年)第19回夏の大会奈良予選で、畝傍中、五條中を破った郡山中は、紀和大会で海南中と対戦。
結果は 6-3 で勝利し、初の甲子園の切符を手にした。これは同時に奈良県勢としても春夏通じて初となる悲願達成であった。
言い換えれば、郡山は奈良県の歴史の扉を開いた高校といえるでしょう。

初の甲子園の舞台に立った郡山は、初戦でみちのくの雄・秋田中と対戦し、7-5 で甲子園初勝利を飾った。これは同時に奈良県勢としても春夏通じての甲子園初勝利となった。さらにこれが、奈良県勢としても春夏通じて初の甲子園ベスト8進出となったのである。
郡山の夏の予選通算成績は198勝86敗、優勝6回、準優勝26回と見事な成績である。
甲子園出場回数は春6回、夏6回、通算成績は12勝12敗、最高成績はベスト4進出である。
このように、郡山高校は奈良県の中等野球史および高校野球史に偉大な足跡を刻んできたのである。

 

 

その郡山高校は、2000年(平成12年)第82回夏の全国大会を最後に甲子園から遠ざかっている。
伝統校・郡山の甲子園復活を待ちわびている人は少なくないであろう。

 

 

 

 

 

 

 

以上です。

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