☆築地界隈ぶらり散策記~母校?発祥の地を訪ねる(やや嘘)~





東京の中心的な街であり、日本の中心ともいえる街、中央区。この街はじつに多彩な顔を持っています。東京で一番の早起き、威勢のいいセリの声が飛びかう築地市場。エネルギッシュに日本経済界をリードする日本橋、八重洲、兜町界隈のビジネス街。ファッショナブルで上品な大人の顔を持つお洒落な街、銀座。江戸っ子気質の残る下町情緒いっぱいの人形町、佃、月島界隈。中央区は、洒落たセンスと活気に満ちあふれた街、“粋・活タウン”なのです。中央区の半分以上は江戸時代の埋め立て地です。江戸幕府の誕生とともに、中央区の発展は始まりました。日本橋を中心に商業が繁栄し、歌舞伎に代表される江戸文化も花開きました。明治時代には西洋文化の窓口となるなど、中央区は経済・文化・情報の面でもつねに時代の最先端を歩んできました。そしていま注目される未来都市・ウォーターフロント・ゾーン。歴史と伝統を培いながら、21世紀を迎え、更に変化し続ける中央区の新しい顔。粋と活きでいっぱいの中央区は、訪れるたびに新しい顔をみせてくれる素敵な街なのです。
その中央区の明石町は、隅田川河口部の西岸に位置し、隣の湊と合わせて鉄砲洲と俗称されるほか、広義の築地に含められることがあり、聖路加国際病院や聖路加看護大学の所在地で、区の関係施設が数ヶ所存在し、明治時代に外国人居留地が置かれ、西洋文化と関わりが深く、慶應義塾の他に、立教大学、明治学院など数多くの大学の発祥地でもあります。

「天は人の上に人を造らず」の言葉で知られ、慶応義塾の創立者、そして壱万円札の人物である福沢諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)に大阪堂島の中津藩屋敷で生まれました。父百助は13石2人扶持という下級武士でしたが翌年(翌々年との説も)死亡したため一家は中津に帰り、諭吉は地元の塾で漢学を学びました。二十歳の時に長崎に出て蘭学を学びますが、翌年大阪に行って緒方洪庵の適塾に入り、ここで非常に強い影響を受けることになります。いったんは兄の死で家を継ぐことになり中津に戻りますが、適塾への思いが諦めきれず、藩の許しをもらって在籍のまま大阪に戻り、やがて適塾の塾長にまで任じられます。そして安政5年(1858年)藩から江戸に出仕するよう命が下ったのを期に、同塾の岡本周吉とともに江戸に下って中津藩の築地の江戸屋敷内(現中央区明石町)に「一小家塾」を設立しました。これが現在の慶應義塾のはじまりです。翌年開港されてアメリカ人が多数入ってきた横浜を見て、これからの時代は英語が必要と痛感、勉強しはじめます。そしてその翌年、咸臨丸による渡米使節に下僕として加わり、アメリカを見聞、その翌年には遣欧使節にも加わってフランス・イギリス・オランダ・ドイツなど7ヶ国を訪問してその雰囲気を肌で体験しました。元治元年(1864年)にいったん中津に戻りますが、2ヶ月には小幡篤次郎(後に慶応2代目塾頭)らのこの地でできた弟子を伴い江戸に戻り、海外の経験をもとに『西洋事情』を著します。その「西洋事情」が刊行された翌慶応3年(1867年)今度は幕府の軍艦受取使節の随員としてアメリカに渡り、多数の教科書を購入してきました。大政奉還・王政復古と続いたこの年があけた慶応4年(1868年)4月3日、新銭座の有馬家控屋敷に塾を移し、時の年号にちなんで『慶応義塾』と名づけられました。しかしこの新銭座は環境が悪く、福沢自身病気になってしまいます。学生も増えてきて分塾を幾つか作っても間に合わなくなってきたことから明治4年(1871年)三田の島原藩邸を欧米の警察制度の調査の仕事と交換条件に払い下げを受けることに成功、現在の本部がある三田の地に移転しました。その後、明治23年(1890年)に大学として正式に認可され、日本最初の私立大学となりました。

蘭学とは、江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術・文化を研究した学問のことで、蘭学の研究対象は広汎多岐にわたりますが、およそ次の4分野に大別されます。
1. オランダ語の習得や研究である語学
2. 医学、天文学、物理学、化学などの自然科学
3. 測量術、砲術、製鉄などの諸技術
4. 西洋史、世界地理、外国事情などの人文科学
幕末には西洋諸国との交渉から、語学の必要性が高まり、近代国家への思想的基盤ともなった。八代将軍徳川吉宗の関心から、青木昆陽に蘭語学習を命じ、昆陽は「和蘭話訳」(1743年)「和蘭文字略考」(1746年頃)等の入門書を著している。京都の山脇東洋は解剖に立会い、所見を「臓志」(1759年)に誌し、長崎の本木良意は独人レムメリンの人体解剖模型図を翻訳、後に「和蘭全躯内外分合図」(1772年)として刊行される。この風潮の中で杉田玄白や前野良沢は、桂川甫周らとクルムスの解剖図譜「解体新書」(1774年)を翻訳出版した。このとき、良沢は「蘭訳筌」(1774年)を版行し、のち増補して「和蘭訳筌」(1785年)を著した。玄白、統をついだ大槻玄沢は、長崎で吉雄耕牛や本木良永に蘭語を学び「蘭学階梯」(1788年)等出版、江戸蘭学の指導者となっている。門下の宇田川玄随は「西説内科撰要」(1793年)を、その養子玄真は「医範提綱」(1805年)を、その子榕菴は、リンネ分類学の「菩多尼阿経」(1822年)や、化学の「舎密開宗」(1837年)を刊行した。京都の稲村三伯は、ハルマ蘭仏辞典の蘭和原訳から「波留麻和解」(1796年)を編集、門下の藤林普山は「和蘭語法解」(1815年)を著している。長崎の志筑忠雄は「和蘭詞品考」やニュートン学説の註釈「暦象新書」(1802年)、ケンペル日本誌から「鎖国論」を訳出し、蘭学研究の水準を画した。商館長ドゥフは、自ら蘭和辞典編集に着手し、引き継いだ通詞たちにより「道訳法蘭馬」(1833年)が出版され名声を博した。本木正栄らは1808年英鑑フェートン号の長崎不法侵入を契機に、商館のブロンホフの指導で英語学「諳厄利亜興学小筌」(1811年)を上梓した。またドゥフは、露使レザノフの部下が択捉島に侵入して残した仏語文書を翻訳、正栄らはドゥフ指導の下に仏蘭辞典から仏和の「払郎察辞典」(1814年)を編纂している。志筑の高弟馬場佐十郎は、1808年、幕府天文方高橋景保の下で「新訂万国全図」(1810年)の翻訳に携わり、蛮書和解御用開設後、ショメールの辞典翻訳に参加した。たまたま国後島に侵入し捕らえられ松前に抑留中の露艦長ゴローニンとの交渉にあたり、「魯語文法規範」(1813年)を編集した。また「和蘭文範摘要」(1814年)等を著し幕府内に新学風を築いた。玄白は、晩年「形影夜話」(1810年)に、「品こそかわれ治療の理は一ッなるを知る」と若き日の伝統医学批判を恥じて、文化受容のあり方を顧みている。このような経緯の中で、文化・文政期を画期として「蘭学」の体系化・細分化が進み、洋学は近代文化形成への道標となったのである。


なお、繰り返し記述しておきますが、慶應高校においては、大正12年(1923年)と大正13年(1924年)の夏の大会予選(当時は東京リーグ戦)に2回不参加の予選準々皆勤校です。不参加となった理由は、当時の慶應普通部は慶應商工と合同でひとつのチームを組織していましたが、他の学校から分離論が起り、2チームに分割すべきだと主張され、これに反対し連盟を脱退していたからです。



次回は、足立区舎人界隈散策記を予定しています。

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