☆第1回箱根駅伝優勝校放浪日記~東京高等師範学校~

JR総武線の水道橋駅と秋葉原駅の間にある御茶ノ水駅からわずか数分の地に湯島聖堂があります。江戸時代、五代将軍綱吉によって儒学の振興を図るための孔子廟として設置されたのが始まりです。
聖堂とともに移設された林羅山を祖とする私塾は、その後、幕府直轄学校として名高い、昌平坂学問所となりました。東京大学はその流れをくみます。
ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後、明治4年に閉鎖されました。
明治5年に文部省が誕生し、この地が我が国の学校教育の原点となり、後の東京高等師範学校、東京女子高等師範学校が置かれました。
東京高等師範学校は文京区大塚窪町を経て東京教育大学(現・筑波大学)となり、現在の茨城県つくば市に移転しました。
東京女子高等師範学校は文京区大塚に移転し、後に新制大学として発足の折、この地名を校名に冠しお茶の水女子大学と称し現在に至っています。





 



※大塚キャンパス


筑波大学といえば、記念すべき第1回箱根駅伝の優勝校です。
どうでもいい事ですが、アタシが高校一年の一学期に、第一志望校を筑波大学医学部と記述してみたところ、担任から呼び出され「熱でもあるのか?」と言われたのは言うまでもありません。


 


 



筑波大学といえば、同窓会に茗溪会があります。
茗溪会は、明治5年東京に創設された師範学校を始めとして、東京高等師範学校、東京文理科大学、東京教育大学および筑波大学などの同窓会で、130年の歴史があります。
また、「茗溪」は御茶の水の谷の意味であり、明治の初め、昌平校跡に設立されたことに由来し名付けられています。


 


 


ところで、先ほど記述した御茶ノ水駅には明治大学の駿河キャンパスがあります。
明治大学といえば、第2回箱根駅伝の優勝校で、ラグビーの強豪としても有名です。


明治大学ラグビー部といえば、“タテ”の明治といわれ、ゴールへの最短距離を突き進むスタイルを採用しています。そのルーツは昭和2年に上海に遠征した際に、同地に駐留していたウェールズチームと対戦したときの経験にあります。
この時、フッカーだった北島忠治監督は、自分の倍もあろうかという相手フォワードのスクラムに苦しみ、みじめな思いをしたようです。
その経験から、北島監督のラグビー観は、「フォワードはどんな厳しい状況でも押し負けない頑健な肉体を持つ選手で、スクラムで相手を押すことを第一の目的とする。」というものになったようです。


明治大学と対照的なのは、“ヨコ”の早稲田といわれ、ヨコの揺さ振りという戦術を長年採用している早稲田大学ラグビー部です。
このルーツは昭和2年にオーストラリアに遠征した際に、相手のオープンプレーを見て当時の主将であった本領信治郎氏は次のように語っています。
「キックオフの球はタッチへ蹴り返すのが定石のように思い込まれていた日本ラグビーであったが、機をみてすぐにオープンへ回すプレーを実演し、またフォワードの散開が早く、スクラムを解いた後のセカンドローでさえもTBラインに加わって、トライゲッターになるようなプレーはこの時初めて見せられ驚異であった。」
この時以来、早稲田大学ラグビー部は、“ヨコの戦術”を進化させながら採用し続けています。



 


“ヨコの戦術”で、アタシがまっ先に思い出すのが、『伝説の3人飛ばしパス』で全国的に有名な茗溪学園である。


茗溪学園は、茨城県南部の人口約21万人を有するつくば市にあり、五三の桐を校章とし、先ほど記述した茗溪会によって、国際的研究都市つくばに住む子どもたちの教育、帰国子女の受け入れ校として、1979年(昭和54年)に設立された進学校です。
茗溪学園は花園に17回出場し、優勝1回、4強1回、8強4回、通算勝利数23勝14敗2分(全国32位)、勝率.622 を誇っています。
そういえば、茗溪学園は硬式野球部はありませんが、数年前の全国軟式高校野球大会にて、ベスト8進出を果たしていたような気がします。


 


 


以上、“ヨコの揺さ振り”日記でした。



















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