☆森鴎外 生誕150年記念~鴎外によって校歌が作詞された公立の伝統校~

2012年1月19日は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪・森鴎外の150回目の誕生日であった。小説家はあくまでも副業で、本業は軍医であり、軍医の最高位である陸軍軍医総監まで務めた。
森鴎外(森林太郎)は島根県津和野で生まれ、東大医学部を卒業後、陸軍、ドイツ留学を経て1888年(明治21年)に帰国し、1892年(明治25年)から文京区千駄木の団子坂上に住居を構えた。二階から東京湾が見えたことから「観潮楼(かんちょうろう)」と名付け、『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を執筆した。


その森鴎外によって校歌が作詞され、関東の中等学校野球をリードしてきた公立の伝統校がある。
神奈川県の東部に位置し、同県の県庁所在地で、同県の市町村の中で面積が最も広く、日本の市町村の中で最大の人口約369万人を有する横浜市に、過去にも記述した横浜市立横浜商業高校がある。


 



横浜商業は、1882年(明治15年)港の有力生糸商人・小野光景らにより横浜商法学校として創設された、神奈川県内屈指の公立の伝統校で、1948年(昭和23年)の学制改革で現在の横浜商業高校となった。
校章および学生帽、野球部のユニフォームのマークからY校という愛称で親しまれているのは全国的に有名である。


硬式野球部は1896年(明治29年)に創部された、神奈川県内の公立校では最も長い歴史を持ち、神奈川県勢として初めて全国大会出場を果たしている。
甲子園には春9回、夏7回出場し、通算成績は25勝16敗1分、春夏ともに準優勝1回を誇る、名実ともに関東を代表する公立の名門校である。
余談ですが、神奈川県勢初のラグビー代表校も横浜商業である。


野球部創部のきっかけとなったのが、1896年の5月23日と6月5日に行われた、旧制一高(現・東京大学)と横浜居留外国人クラブの試合であった。
この試合で一高野球部は、それぞれ29‐4、32‐9と大勝した。6月5日の二戦目では、横浜商業が全校生徒240名を挙げて一高の応援に駆けつけ、あんパンの差し入れまで行った。感激した一高野球部員は、応援のお礼としてボールとバットを贈り、これを機に横浜商業野球部が創部される事となる。
野球部創部時のコーチは、一高投手の青井鉞男氏であった。
青井鉞男氏は、栃木県中学校(現・宇都宮高校)から旧制一高へ進学。一高時代に横浜の外国人居留地を尋ねドロップを体得、「日本に敵なし」と言われた一高野球部の主戦投手として活躍し、日本の野球史の草分け期に大きな功績を残し、また後進者の育成に大きく寄与したことが讃えられ、1959年(昭和34年)の野球殿堂創設時に初めて特別表彰者として殿堂入りした人物である。


横浜商業は、夏の予選には1917年(大正6年)第3回夏の大会関東地区予選(※東京、神奈川、茨城が参加)に初参加し、見事に決勝まで進出を果たすも、慶応普通部に0‐2と惜敗し初の全国大会出場の夢が絶たれた。
1918年(大正7年)第4回夏の大会予選からは、千葉、茨城の参加希望校が増えたため、東京と神奈川の京浜大会で予選を戦う運びとなり、決勝で慶応普通部に、第5回大会予選は1回戦で明治学院中に、第6回大会予選は決勝で慶応普通部に、第7回大会予選は準々決勝で慶応普通部に、第8回大会予選は準決勝で早稲田実業に敗れた。


1923年(大正12)の第9回夏の大会予選からは、東京の参加希望校が増えたため東京は単独開催となり、静岡と神奈川の神静大会で予選を戦う運びとなった。
決勝に進出した横浜商業は、静岡中を8‐3で破り、予選参加から7年目にして初の全国大会出場を成し遂げ、これが同時に神奈川県勢としても初の全国大会出場となったのだ。
初の全国大会初戦の相手は、何と前年の京浜大会の宿敵・早稲田実業であった。結果は、惜しくも1‐5での敗退となった。


そして、1933年(昭和8年)第19回夏の全国大会において、佐賀師範を6‐2で破り、同校としての甲子園初勝利を挙げ、これが同時に神奈川県勢としても春夏通じて甲子園初勝利となったのだ。
続く2回戦も敦賀商を4‐1で破り、同校ならびに神奈川県勢としても初のベスト8進出となったのだ。


その横浜商業も、1997年(平成9年)第69回春の選抜大会を最後に甲子園から遠ざかっている。また、夏の選手権大会においては、1990年(平成2年)第72回大会でベスト8に進出したのを最後に甲子園から遠ざかっている。
この第72回夏の大会1回戦で、横浜商業の校歌を作詞した森鴎外の生誕地である、島根県津和野町にある津和野高校に5‐1で勝ったのは何かの縁なのだろうか。



最後に、神奈川所在で現在も硬式野球部が存続している高校を創部の古い順にある程度並べてみると、おそらく以下のようになろうかと思われます。(※野球部創部の考え方は学校によってかなり異なります)


1888年(明治21年)
慶應義塾高校


1896年(明治29年)
横浜商業高校


1904年(明治37年)
希望ヶ丘高校


1907年(明治40年)
厚木高校


1908年(明治41年)
小田原高校


1914年(大正3年)
横浜翠嵐高校


1915年(大正4年)
藤嶺藤沢高校


1921年(大正10年)
神奈川工業高校


1922年(大正11年)
鎌倉学園高校
横須賀高校


1923年(大正12年)
神奈川商工高校
関東学院高校


 


 


以上のように、Y校は中等学校野球の先駆者だったのです。

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