☆ハイカラさんが通ると女学校を分かりやすく解説すると

時は大正、お転婆娘の花村紅緒は、伯爵・伊集院家へ行儀見習いに行くことになった。扉が開かないので塀を乗り越えようとしたところ、ぬかるみに落ちてしまった。それを見て笑う軍服姿の青年は、紅緒の許婚・伊集院忍だった。何も知らない紅緒はびっくり。それは忍の祖母と紅緒の祖父が決めたものだった。料理・裁縫など奥女中・如月のシゴキが始まった。ある日紅緒が洗濯物を干していたら伯爵が来て、それを地面に叩き落とした。女の物を男の物の上に干したのが気にくわなかったのだ。怒った紅緒は伯爵を剣道で負かしてしまった。数日後、紅緒は忍と街へ出かけたが、買い物の途中彼が芸者と親しく話しているのを見て苛立った。ヤケ酒を飲み酔っ払った紅緒は酒場で軍人相手に大暴れ。忍が止めに入ったが、「冗談倶楽部」という雑誌では彼が悪者になってしまい、忍は小倉の部隊へ左遷になった。芸者は忍の死んだ友人の恋人で、忍は紅緒に「小倉から戻ったら式をあげましょう」と言った。しかし、忍の部隊はそのままシベリアヘ送られた。「無事に帰って」という紅緒の願いも空しく忍は消息を絶った。復員した部下の鬼島の話では、忍はロシア兵の銃剣に倒れたという。忍は生きていると信じて疑わない紅緒は「彼が帰って来るまで律集院家に置いて下さい」と伯爵に頼んだ。その間紅緒は「冗談倶楽部」で働くことになった。大正11年、冬。紅緒は編集長の青江冬星から結婚を申し込まれた。しかも伯爵夫妻からは「忍のことは忘れて幸せな結婚をしなさい」と言われた。紅緒は気持ちをハッキリさせるため、忍の生死を確かめようとシベリアへ立った。だが、忍に似た日本人という噂の男は別人だった。帰国した紅緒は青江と結婚することを決めた。ところが式の当日、忍が帰って来た。鬼島が式場へ走るが、すれ違いで紅緒に会えない。青江と紅緒が誓いの言葉を述べようとしたとき、大震災が起こり式は流れてしまった。青江は運命と諦め、紅緒は忍と再会した。


この地震は大正12年9月1日の関東大震災であった。この年の11月1日に下妻町外11町村学校組合立下妻町立実科高等女学校と改称した女学校があった。


 



茨城県の南西部、東京から約60㎞圏に位置し、北は筑西市、南は常総市、東は筑波研究学園都市と筑西市、西は結城郡八千代町にそれぞれに接しており、比較的平坦な地形で市内を挟むように自然豊かな鬼怒川・小貝川が流れ、市内中央部には茨城百景の一つ、または太公望のメッカでもある砂沼があり、広大な田園風景にそびえ立つ紫峰・筑波山の景観は魅力の一つである、人口約44,000人を有する下妻市に、下妻第二高等学校があります。


下妻二高は、1903年(明治36年)に開設された私塾女子文芸会を起源とし、平成21年には創立100周年を迎えた歴史を誇る伝統校である。
下妻二高は、元々は女子校であったが、1993年(平成5年)から男女共学となり、野球部はその翌年に創部された。
甲子園には春1回(2009年・平成21年)、夏1回(2004年・平成16年)出場し、通算成績は0勝2敗である。


元々は女子校であった下妻二高が急激に強くなったのは、地図を見るのが好きで練習グラウンドの控え室の壁には世界地図と日本地図を貼っているという、社会科教師の小菅監督が就任してからである。
小菅監督は、全国制覇した取手二高の三塁手、九番打者で守り専門の脇役としてチームに貢献し、木内野球を継承するひとりである。
そういえば、取手二高も元々は女子校であった。


女子校から共学となり野球部ができ、創部から数年で甲子園に出場した学校といえば、福岡の東筑紫学園、愛媛の済美、鹿児島の神村学園、石川の遊学館、そして記憶に新しい春夏通じて史上最速の創部1年での出場を果たした岡山の創志学園とあるが、いづれも私学である。
平成以降に女子校から共学となり、ここ数年内に甲子園出場を果たしている公立校といえば、全国でも下妻二高だけではないでしょうか?


参考までに、甲子園出場を果たしている『男らしい校名』ながら実は女学校として創設された学校には、青森山田、桐生第一、樹徳、開星、石見智翠館(旧・江の川)、柳ヶ浦などがあります。


 


 


以上です。












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