☆ユニフォームの記憶(5)~浦和学院と春日部共栄の熱闘


先日、甲子園歴史館を訪れ、展示されていた二つのユニフォームを見て記憶がよみがえった。
それは、2000年7月30日、第82回夏の全国高校野球埼玉大会の決勝戦である。90年代の埼玉県高校野球界を牽引してきた浦和学院と春日部共栄が甲子園の切符をかけ6年ぶりに激突した。真夏の太陽の下、2万人の観衆が息をのんで見つめていた試合であった。
この年、春の県大会を制した優勝候補の春日部共栄は、関東No.1投手の呼び声高いエース中里、準決勝までの6試合で55点を奪う攻撃力、無失策の守備力と完成度の高さは際立っていた。
一方の浦和学院は、秋、春とも4強入りすらできず、エース坂元弥太郎が5、6月の練習試合でも不調であった。森監督は、夏は一つ下の大竹寛でいこうと考えていた。
だが、森監督の意図を感じ取った坂元は大会に入り一変する。夏のエースは大竹だろう。そう思うと開き直れ、結果を求めて空回りしていたのが、野球を楽しめるようになった。
準決勝までの6試合中4試合を一人で投げ切り、それに引っ張られるように打線も奮起し、一気に決勝まで駆け上がった。

迎えた決勝戦。切れ味鋭い二種類のスライダーが武器の坂元。
分かっていても打てない直球で押しまくる中里。
中盤に1点ずつ失うが両右腕が持ち味を発揮し、延長に突入した。
明暗を分けたのは10回の攻防だった。
先攻の春日部共栄は2本の安打と四球で2死満塁の好機を作り、4番の島田を迎える。坂元はここでも、野球を楽しんでいた。不思議なくらい冷静だった。そろそろタイミングが合うころとスライダーはあえて投げず外角の直球を4球続け、投ゴロに打ち取った。島田の打球は強烈だった。坂元は、投げ終わったら打球がグラブに入っていた。捕ったという感覚ではなかったと振り返っている。

その裏、攻撃に入る前の投球練習で浦和学院の3番丸山は、中里が捕手からの返球を捕り損ねて落としたのを見逃さなかった。動揺している。この回が勝負だと思った。
中里はその時の状況を、いい当たりで好機を逃し、へこんだというのはあったが動揺はあまりなかったと語っている。
だが、先頭の8番坂元にこの日初めての四球を与える。まずい、と心は乱れ始める。
二死一、二塁で丸山が左打席に入った。これまでの4打席は全て凡退だったが、タイミングは合っている。左打者には直球しか来ない。狙いは低めの直球。いつもよりバットを1センチ短く持った。3球目、真ん中低めの直球を迷いなく振り抜くと、打球は中里の足元を抜けた。
中里が狙われていても直球を打たれて負けるなら悔いはない、と投じた137球目であった。
坂元が三塁を蹴った。センターがボールを小さくはじくが、すぐさまノーバウンドの返球を本塁へ。スライディングで砂ぼこりが舞った。審判の手が大きく横に開いた。サヨナラだ!
このとき、試合が終わったことに気づいていない選手が一人いた。ホームインした坂元だ。次の回を抑えなければいけない、投げなければ。坂元はそれ以外、何も考えてなかった。究極まで高めた集中力で、坂元は中里との投手戦を超えた精神戦を制したのだ。

中里はこう振り返る。相手の方が気持ちが強かったのでしょう。僕の写真をマシンに貼り付けて打撃練習していたという話も聞きました。浦学は春まで結果を残していなかったけど、僕らが戦ったのはまぎれもなく強い浦学だった。

好機で打球が投手の足元を抜けた浦和学院と抜けなかった春日部共栄。勝った方も負けた方も「最高の試合」と言い切った、埼玉県高校野球史に残る素晴らしい決勝戦であった。


春日部共栄 000 001 000 0 = 1
浦和学院  000 100 000 1x= 2





以上です。

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