☆岩手県の歴史の幕開け&予選準皆勤校(連続参加組)~盛岡ー高~

 

盛岡一高は1880年(明治13年)に公立岩手中学校として創立され、岩手県内では盛岡農業に次ぐ歴史を誇り、岩手県内のみならず東北地区を代表する進学校である。

硬式野球部は1899年(明治32年)に創部され県内最古の歴史を有する。甲子園には夏のみ9回出場し、通算成績は7勝9敗、最高成績はベスト4(2回)である。

 

 

1915年(大正4年)第一回夏の全国大会東北予選は、秋田中(秋田)、横手中(横手)、秋田農(大曲農)の3校で実施された。当時の東北地区の中等野球は盛岡中(盛岡ー)と一関中(一関一)が圧倒的な強さを誇っていたが、両校には予選開催の連絡は無く、全国大会での秋田中の準優勝を知らされた関係者は猛烈に抗議したという。

岩手県勢が夏の予選に初参加したのは、翌年の1916年(大正5年)、仙台二中(仙台二)グランドで開催された第二回夏の全国大会東北予選であった。(この予選に秋田県勢は不参加)

岩手県勢として初めて予選に登場したのは盛岡中であった。相手は宮城の名手こと仙台一中であった。試合は盛岡中が11対0と圧勝し、岩手県勢として夏の予選初勝利を飾った。言い換えれば、岩手県の歴史の幕を開けたのは盛岡一高と言えるでしょう。岩手県の夏の幕開けは、1916年(大正5年)8月1日であった。

盛岡中は続く試合でも福島師範に18対1と圧勝、下馬評通り同じ岩手のライバル一関中と決勝を戦う事となった。

しかし、決勝戦は1対4で敗れ(盛岡中はダブルヘッダーとなり、少なからず影響があったと思われます)全国大会出場は果たせなかった。

 

盛岡一高は第二回夏の大会予選から現在まで連続参加している。(第二回大会から参加した一関一、仙台二も同様)

すなわち、夏の予選準皆勤校である。

先ほど、第一回夏の全国大会予選開催の連絡に関して少々記述しましたが、東北地区では朝日新聞社から秋田中に全国大会開催の連絡が入った(朝日新聞社に秋田中卒の記者がいた)が、予選開催の要請はなく、秋田中は招待されたと思っていた。暫くして、朝日新聞社から対戦成績を送るよう要請があり、慌てた秋田中は県内の2校と試合を組んで優勝、その結果がそのまま東北予選として採用された。

もし、朝日新聞社から東北予選を開催するようしっかりと通知があれば、予選皆勤校が3つ増えていただろう。

 

 

 

 

 

 

以上です。

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