☆花園への道~秋田代表・秋田工業~

 「ピッ! ノックオン、スクラム、秋工 ボール」

 

 

秋田県でのラグビーの始まりは、大正12年という記録が残されている。主唱者は郷土史家として知られた武藤鉄城氏で、当時、「ラ式蹴球」といわれた地方では全く未知のスポーツに関心を寄せた人々のほとんどが別のスポーツ選手だった。

第1回全国中等学校優勝野球大会に出場した秋田中学野球部の捕手だった渡辺純司氏などもそのひとりで、のちに秋田県知事となった池田徳治氏や辻兵太郎氏、湊貞輔氏といった面々11人で秋田運動倶楽部を設立したが、11人では試合ができないので、あわててやっと4人だけメンバーに加えた。
このチームの最初の試合が大正12年9月で、相手は鉱山専門学校(現・秋田大学工学資源学部)だった。
大正13年、ラグビーの全県大会が初めて行なわれ、この全県大会を契機に県民の関心が高まった。
そして、大正14年4月、旧手形練兵場に楕円のボール2個携えた20人ほどの学生が現れ、やがて秋田鉱山専門学校生の指導で、秋田工業ラグビー部が誕生した。この年には、秋田工業、秋田中学、大曲農業、本荘中学の4校で全県中等学校大会が行われ、秋田中学が優勝した。
輝やける秋田工業ラグビーの歴史は昭和2年に始まるといわれている。この年、秋田工業に鎌田徳治氏が赴任し、ラグビー部の部長に就任した。鎌田氏の練習はハードトレーニングで、秋田工業の栄光はこの猛練習から生まれた。
昭和4年、秋田工業は秋田中学と決勝を争ったが、ゲーム中審判の不平をならして秋田中学が総退場したため戦わずして秋田工業の優勝となった。これが「優勝」の第一歩であった。
昭和5年、関東ラグビー協会の推薦を受けた秋田工業は、初めて全国大会に出場した。結果は、満州代表の奉天中に 6 - 12 で惜しくも一回戦で敗退した。
昭和6年、7年、8年も続けて北海道・東北代表として全国大会に出場したが、何れも朝鮮代表の京城師範の前に敗れた。昭和6年、全国大会に優勝し初めて外地へ優勝旗を持ち去った京城師範こそ秋田工業の宿敵であり、"打倒京師"の合言葉で当時の選手は鍛えられたのである。
そして昭和9年、5度目の全国大会に出場した秋田工業は、4連勝を狙う京城師範を決勝戦で 8 - 5 で破り初の全国制覇を成し遂げたのである。

 

秋田工業は全国最多の優勝15回、準優勝回数も天理と並び全国最多タイの7回、勝利数も全国最多の132勝という輝かし戦績を誇る。

 

伝統の紺と白の段柄ジャージは花園が一番似合う。秋田工業の16度目の全国制覇に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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