☆センバツへの道 ~21世紀枠埼玉県推薦校・上尾高校~

 

 

 

埼玉高校野球を語るとき、忘れてはならない人物がいる。『埼玉高校野球の父』と呼ばれ、上尾高校の監督として春夏6回の甲子園出場を果たした野本喜一郎氏である。
野本氏は不動岡中(現・不動岡)を卒業、第二次世界大戦が勃発すると日本軍に徴兵され、中国戦線へ送られた。戦後、社会人野球コロンビアを経て西日本パイレーツに入団。西鉄ライオンズなどで右下手投げ投手として、計4年間のプロ野球生活で18勝を挙げた。
引退後は埼玉に戻り、上尾町(現・上尾市)で銭湯を営んでいたが、1958年(昭和33年)に上尾高校野球部初代監督に就任。スパルタ、根性野球が隆盛の時代にあって、野本氏の指導はしごきも、罵声を浴びせることもなく「自分で考えて」育てる方法だった。
創部5年目の1963年(昭和38年)には春の選抜大会で甲子園初出場を果たすなど、みるみるうちに上尾を埼玉の強豪へと押し上げていった。
1975年(昭和50年)夏の甲子園では、原貢監督と原辰徳選手の親子鷹で注目を集めた東海大相模を破りベスト4に進出した。
しかし、野本氏は1984年(昭和59年)4月に上尾の監督を退任し、創立間もない浦和学院の監督に転身。上尾高校は同年夏こそ選手権大会に出場したものの、その後は一度も聖地を踏んでいない。

余談になりますが、上尾高校といえば、小柳ゆきの出身校です。小柳ゆきの曲の中では『愛情/can't hold me back』が好きです。


埼玉県立上尾高校は埼玉県の中東部に位置する上尾市に所在し、1958年(昭和33年)に共立上尾商業高等学校として創設され、野球部も同年に創部された。
夏の全国大会予選には、1959年(昭和34年)の第41回大会予選(西関東大会)に埼玉県勢としては、熊谷、浦和 、川越 、深谷商、埼玉師範、不動岡、本庄 、市川越 、所沢、松山、浦和商、豊岡、春日部、大宮、都北(閉校)、大宮工、川口工、浦和商二部(閉校) 、川口 、川越工、与野、浦和二部(閉校)、市浦和、熊谷商、幸手桜 、町立志木(閉校)、杉戸農、聖望学園、正明(閉校)、岩槻商 、川越総合、熊谷農、鴻巣、進修館、秩父、秩父農工科学、羽生実、慶応志木、児玉、飯能、浦和西、大宮商 、小鹿野、 川口市立 、大宮北に次いで、蕨とともに初参加した。結果は、松山に 1 - 4 で敗退となった。
夏の予選初勝利は、1962年(昭和37年)の第44回大会予選(西関東大会)で、川越商(市立川越)に 2 - 1 で勝利した。
夏の予選通算成績は162勝57敗である。

 

 

上尾高校の21世紀枠での甲子園復活に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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