☆悲運のエース ~鈴木 孝政~

1970年代の高校野球界に「怪物フィーバー」を巻き起こしたのは、作新学院のエース・江川卓であった。150km超と言われた速球を武器に、春のセンバツの大会最多奪三振記録(60個)を始め数々の記録を打ち立てた。
だが、時を同じくして、関東には江川と並ぶ速球派がもうひとり存在した。千葉県立成東高校の右腕・鈴木孝政である。ハンドボール投げで50mを軽く超える強靭な肩と、柔軟な手首から放たれる直球で、関東に名を轟かせていた。

 

「成東時代の鈴木のボールは江川よりも速かった」と断言する人がいる。全国屈指の強豪・銚子商業で、鈴木と同学年のエースだった根本隆である。
当時、その名が県下に知れ渡っていた鈴木とお互いが3年生になって初対戦したのは、1972年の春季千葉県大会準決勝であった( 2 - 0 で成東が勝利)。

この試合、銚子商ナインのバットは、鈴木のストレートにかすりもしなかったという。
「鈴木の球は、マウンドとホームの中間から一気に伸びてくる。快速球というイメージです。スピードがあるぶん、制球はアバウト。ストライクゾーンに入れば打てないだろうという自信があったんでしょう。体感ですが、150kmは出ていたと思います。」
一方、別の試合で対戦した江川について、根本の印象に残っているのは、速さより「精度」だった。
「江川は、速いボールを両サイドにきっちり投げわけてきました。くわえてカーブも四隅を突いてくる。クレバーなんです。カーブは鈴木より格段にレベルが高かった。ただ、僕は江川の外角のストレートを三塁打にできた。直球そのものは、鈴木のほうが上でした。」
140kmを投げれば速球派と言われた時代だが、鈴木は中日に入団して3年目、非公式ながら155kmを記録している。この根本の感覚は、そう間違ってはいないはずだ。

 

鈴木は成東高校に在学中、幾度となく「千葉の大本命」と言われながら、一度も甲子園出場を果たすことはできなかった。鈴木が「悲運のエース」と呼ばれた所以である。

鈴木は、1972年のドラフト1位で中日に入団すると、剛速球を武器に守護神に抜擢された。リリーフエースとして3年連続でタイトルを獲得。先発転向後は技巧派にモデルチェンジし、通算124勝96セーブ、中日3度の優勝に大きく貢献した。

 

 

 

 

 

以上です。

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