小さな大投手 今川敬三(選抜大会最少74球の省エネ記録)

今から55年前秋田商業に165センチの「小さな大投手」がいた。

飯田長姫高校の光澤毅をほうふつさせる程の小柄で光澤はサウスポーで有ったが今川敬三は右のサイドハンドで

精密機械の様な抜群のコントロールで相手打者を打たせて取る投球が光った。

 

今川敬三が甲子園へ初登場したのは

1960年(昭和35年)第32回の選抜大会その大会は二回戦阿倍野高校を破り、準々決勝では優勝候補の慶應高校を2対1で下した。そして記録が達成された準決勝の米子東戦で8回74球という選抜最少投球という偉大な記録を成し遂げた。しかし試合は1対2と惜敗した。

(1960年第32回選抜大会)

○5-2 阿倍野
○2-1 慶応
●1-2 米子東

 

今川は同年第42回選手権大会でも甲子園へ出場し水戸商業を10対0で破ったが、次戦で静岡高校に0対1と惜敗している。

(1960年第42回選手権大会成績)

○10-0 水戸商
●0-1 静岡

翌年1961年の第33回選抜、第43回選手権大会も連続出場し、秋田商業の黄金期を築いた。

(1961年第33回選抜大会)

○1-0 高鍋
●0-1 桐蔭

(1961年第43回選手権大会)

●1-3 平安

というようになっているが、4度の甲子園に出場し8回先発そのうち無四球試合が2試合、5試合はわずか1四死球で有った。

 

今川はその後早稲田大学に進学し早稲田大学卒業後秋田へ帰郷し1967年に母校秋田商業高校の監督に就任し70年、75年2度の甲子園出場に導いた。

 

しかしながら訃報は突然に届いた1976年6月18日未明大館市の実家に体調のすぐれない父親を見舞いに行った帰途交通事故にあい不慮の死を遂げた。

 

当時4歳になる1粒だねの長男の名前を呼びながら天国へ旅立ったという。

 

その年もエース山岡政志、スラッガー武藤一邦を擁して予選を危なげなく勝ち上がり第58回甲子園にも出場

一回戦宇部商業に4対3と辛勝したが、二回戦天理に5対4と惜敗している。

 

今川敬三秋田県を代表する名選手であり、そして名監督で有った。

 

(米子東戦で力投する 今川敬三)

 

(今川敬三とバッテリーを組んだ 保坂)

 

(今川の遺影をもっ秋田商業 山岡 高校卒業後 日本石油で活躍した)

 (4番武藤、法政大学でもクリーンナップを打った、ドラフトでロッテオリオンズが2位指名)

 

 

                                           以上

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