秋季高校野球東京都大会は国士舘が連覇!

 

 

校歌が短い学校として千葉の銚子商業が有名であるが、それに匹敵するくらい国士舘高校の校歌も短いということはあまりにも有名である。いや国士舘生の間では校歌とは言わず舘歌と呼んでいる。

 

「霧分けのぼる 陽を仰ぎ 梢に高き 月を浴び 御國にゆるす 大丈夫の ここ武蔵野の国士舘」

 

という具合である。

 

大正6年11月麻布で創立された私塾国士舘が母体。戦後、21年至徳中学校に改称。

23年の学制改革で至徳高校となり、28年国士舘高校に改称。

 

昭和21年4月に創部。40年秋の東京大会は決勝で敗れ、43年の東京都大会でも準優勝したが甲子園には出場できなかった。

58年1月永田昌弘監督が就任、平成2年秋に東京都大会で優勝し翌年選抜でエース菊池裕介(国士舘大→川口球友クラブ)、4番レフト石渡晃弘(東北福祉大)、二塁手守谷武士(明治大→JR東日本)で初出場いきなりベスト4へ進出した。

 

5年選抜にエース池本陽輔(青山学院大)で2度目の出場。初戦で岡嶋秀樹がエースの東山高校を破る。3回戦は2年生エース小笠原孝の市立船橋高を7対0と大きくリードしながら9回に追いつかれ、延長14回サヨナラ勝ち。

準々決勝で2年生バッテリーの鹿児島商工の福岡真一郎ー田村恵のバッテリーを下し再びベスト4へ進出した。

 

8年の選抜でもエース高野修平(国士舘大)でベスト8迄進んだが、翌9年選抜にエース掛江雅之(国士舘大)で出場し初めて初戦で敗退した。

 

同年秋は都大会を制し、翌10年春にエース山本篤志(同朋大)で選抜に出場したが、初戦で広島商業に完敗。

このとき2年生で背番号13の控え選手に金子洋平(青山学院大→HONDA→日本ハム)がいた。

秋は鎌田政良で都大会ベスト4どまりだった。

 

11年秋にも都大会を制し、12年選抜に左腕エース小島紳二郎(国士舘大→広島)で出場。初戦で急遽出場した高岡第一高と対戦嶋崎投手に5安打に抑えられたが、小島が高岡第一高を3安打11三振に抑えて完封勝ち。

2回戦で強打智辯和歌山と対戦し智辯和歌山打線を7回まで3安打1失点に抑えて4対1とリードしていたが

8回平凡な1塁ゴロがベースに当たる不運があり一挙8点を奪われ逆転負けした。

 

大会後小島が左ひじを痛めて登板できなくなり、夏の大会は中村、萩、森本の3投手の継投で決勝まで進んだが甲子園の切符はつかめなかった。

 

14年秋はエース新垣勇人(横浜商大→東芝)と1年生久古健太郎(青山学院大)の2投手を擁して東京都大会優勝。翌15年選抜では初戦で愛工大名電と対戦久古が先発して新垣につなぎわずか2安打に抑えたが、昆野ー丸山の継投で散発6安打に抑えられ完封で敗れている。

 

17年夏、山形研二、永沢友也の2投手で初めて夏の甲子園に出場。初戦の天理高校戦は1対3とリードされた9回に3安打と暴投で追い付き、10回表には1死1,3塁から三振の間に重盗で勝ち越し、直後の3連打で計4点を奪って逆転勝ちした。

 

2回戦は青森山田高校の左腕柳田に散発3安打10奪三振に抑えられ完敗した。

 

18年永田監督が国士舘大学の監督に転じ箕野豪が監督に就任した。

 

その後再度永田監督がカムバックして30年秋、そして31年秋東京都を連覇した。

 

「春の国士、桜の国士」と言われるように春に強い国士。

 

国士舘高校甲子園では国士らしく正々堂々戦い紫紺の大旗を掲げ、柴田徳次郎先生の墓石に歓喜の報告をしてほしいと思う。

 

そのためにはまずは神宮大会で1勝だ!

 

 

 

 

 

 

 

                                  おわり

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