消えた球場(28) センバツ発祥の地 山本球場(JR東海八事球場)

  • Mr.black
    2013年09月13日 18:03 visibility12201

今年で85回になったセンバツ高校野球。

その記念すべき第1回大会は甲子園ではなく愛知県名古屋市の「山本球場」で開催されました。

山本球場は1922年(大正11年)地元の富豪、山本権十郎氏が私財を投じて作った野球場でした。グランドの広さは不明確ですが、航空写真を見るとレフトが狭くライトが広い多少歪な形をしていたようです。収容数は2,000人。

 

何故この地でセンバツが開催されたのかは二つの理由がありました。

一つは東海圏でも中等学校野球(高校野球)大会を開催して欲しいという要望が強かったこと。

もう一つは夏の大会がそれまでに行われた9回の内、6回関西の学校が優勝しているので「地の利があるかどうか?」を検証したいということでした。

 

しかし個人的には関西が基盤の大会主催者・大阪毎日新聞(当時)が「東海圏で販路を拡大したい」という思惑があったからだと思っています。

 

それはともかく、山本球場での第1回センバツ大会は1924年(大正13年)の4月に開催されました。

出場は8校。この内、関西からは3校(市岡中、立命館中、和歌山中)が出場しました。

この関西3校は早々に敗退。優勝したのは香川の高松商業でした。

結果的に関西の学校は「地の利が無くて負けた」のかもしれませんが、でも地元の愛知一中も決勝まで行けなかったので痛み分けみたいなものでしょうか?これでは結論は出せませんね。

 

 しかしながらこの年の夏に甲子園球場が完成すると選手権大会だけではなく、翌春からはセンバツも甲子園での開催に移行。山本球場での開催は僅か1回に留まりました。

その後山本球場ではプロ野球の試合も行われましたが、グランドの状態や観客席の小ささが問題視され、やがてプロは使わなくなりました。

さらに鳴海球場の完成により県内の主な野球の試合はそちらへ移行。山本球場は徐々に廃れていったようです。

 

そして戦後の1947年(昭和22年)、国鉄がこの球場を取得。

球場名も「国鉄八事(やごと)球場」と変わりました。

しかしグランドが狭いこともあり、試合開催よりは国鉄名古屋局チームの練習場としての利用が多かったようです。

更に国鉄が分割民営化されると球場名は「JR東海八事球場」と変更。そして1990年(平成2年)ついに閉鎖されてしまい、球場跡地にはその後マンションが建てられました。

 

 

このマンション内の公園の中に「センバツ発祥の地」の記念碑が作られました。

記念碑の周辺がかつてのホームベース付近だったということです。

 

 

 

記念碑の下には球場の略歴と歴代センバツ優勝校の校名が刻まれています。

校名は第1回の高松商業からスタート。

 

 

優勝校名の銘鈑は数年ごとにまとめて追加されているようです。

直近の5校の分だけ新しかったですからね。今年のセンバツ覇者、浦和学院の校名もあります。おそらく次回は第90回記念大会終了後に更新されるのではないでしょうか?

 

 

 記念モニュメントから少し離れた場所にあるメモリアルパークの石碑。

モニュメントの正面に向かって左奥に歩くとすぐに見つかります。

 

山本球場(JR東海八事球場)跡地へのアクセスは地下鉄名城(めいじょう)線「八事駅」から北西に徒歩10数分。または地下鉄鶴舞(つるまい)線「いりなか駅」から南東に徒歩10分程度です。「いりなか駅」からの方が行きやすいかもしれません。

なお、センバツ記念碑のある場所はマンション内の子供が遊ぶスペースですし、当然マンション敷地内でもあります。

なので見物するにあたっては住民の方々や遊んでいる子供さんに十分配慮し、見物したらさっさと敷地から出た方がいいと思います。

周辺を長時間ぶらついたり、関係の無い場所をむやみやたらに撮影しないのがベストでしょう。

私も写真だけパッパッと撮ってほんの数分で立ち去りました。本当は地形などをじっくり見たかったのですがね。(苦笑)

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