熱血ティーチャー 栗山英樹

熱血『ティーチャー』栗山 英樹


 




 


栗山 英樹[外野手] くりやま ひでき


通産 試合494 安打336 本塁打7 打点67 盗塁23 打率,279


国籍:日本


出身地:東京都小平市


生年月日:1961年4月26日(50歳)


身長:174cm 体重:74kg


投打:右投両打


出身高:創価高等学校~東京学芸大学


入団経路:1983年 ドラフト外


初出場:1984年


最終出場:1990年


在籍チーム:ヤクルトスワローズ(1984~1990年)


 


栗山が野球をはじめるきっかけになったのは、野球好きの兄に誘われて、小学校時代に軟式野球をしたことであった。


しかし、栗山は中学校に入るとあっさり野球を離れ、バレーボール部に入部。


当時から、俊敏な動きができることを買われた栗山はすぐさまチームのセッターとして起用され活躍をする。


栗山はこのままバレーボールを続けていくかに思えたが、中学3年の時に今度は地元の硬式野球のクラブに入部し再び野球をはじめる。


もともと軟式野球で下地ができていた栗山はここでも天性の野球センスを発揮。


投手としてチームを牽引し、勝利に貢献した。


この時、栗山は日米大会にも出場し、その大会でも大活躍。


見事MVPを獲得する。


この活躍はすぐさま地元でも話題となり、栗山に目をつけた地元の創価高校のスカウトは熱心に栗山の元を訪れるようになる。


栗山もこの真摯なスカウトの姿勢に心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。


高校に進学した栗山は入部早々にその期待に違わぬプレーを披露。


1年生からベンチ入りを果たすのだが、当時の創価高校の甲子園への道のりは遠かった。


3年生の時には主将兼エースとしてチームを引っ張り、春の全東京大会に出場するも早稲田実業に敗れて惜しくも関東大会出場を逃してしまう。


優勝候補として期待された3年生夏の西東京大会でも4回戦で敗退。


志半ばにして栗山の甲子園出場への夢は断たれてしまうのであった。


野球に区切りがついた栗山は大会終了後、今度は教員を目指して勉学に精を出しはじめる。


もともと、学業の成績も良かった栗山は、志望していた東京学芸大学教育学部に見事合格を決めたのだった。


東京学芸大学に入学した栗山は、迷わず硬式野球部に入部。


ここでも実力を発揮して、投手、内野手として活躍する。


東京新大学野球連盟の大会では、投手として1年生の春のリーグ、翌年の2年生の春のリーグも制覇。


栗山はチームのエースとして、25勝8敗を記録。


充実した野球人生を送っていた栗山であったが、なんと右肘に予期せぬ故障が発覚。


投手としての生命線でもある肘の故障に限界を感じた栗山は、野手に転向することを決意することになる。


もともと小柄で長打力は無かった栗山であったが、ミート力にずば抜けた資質があり、打者としてもその本領を発揮。


打率、389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。


大学野球ですばらしい実績を残していた栗山であったが、大学卒業後は教員になることを考えており、この時すでに小・中・高の教員免許を取得していたのだった。


だが、大学卒業が近くなるにつれて、栗山は教員になる以上に野球を続けて生きたい気持ちが強くなっていく。


ついに栗山は大学野球のメッカの神宮球場をフランチャイズに置く、ヤクルトスワローズの入団テストを受けることを決意。


栗山はそのテストにおいても、その実力を如何なく発揮。


見事、テストに合格しプロ野球選手としての人生を歩むことになったのだった。


 


1984年、入団1年目の栗山は背番号46を与えられてショートとしてプロデビューを果たす。


しかし、1年目に出場した1軍での試合はわずか2試合にとどまってしまう。


この時、栗山はプロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受けていた。


 


『プロで野球選手を続けていくことはムリだ・・・。』


 


この年の栗山は野球を辞めることばかり考えていたという。


だが、石の上にも三年。


それでも栗山は自らの葛藤を振り払い、さらなる生き残りをかけて、プロ入り2年目となる1985年から持ち前の100m11秒台の俊足を生かすためにスイッチヒッターに取り組みはじめる。


さらには、少しでも一軍での試合出場の可能性を広げるため、外野手への転向を試みるのであった。


その成果が少しずつ現れたか、この年に栗山は29試合に出場。


一軍での打率、278も評価され、ジュニアオールスターの出場選手にも選ばれた。


だが、この年の試合中。


栗山は突然のめまいと立ちくらみに襲われる。


 


『地面が揺れて、ボールが2つにも3つにも見えるようになるんです。』


 


試合を途中で退いた栗山は、病院に行き自らの症状を医者に報告した。


すぐさま精密検査が行われたが、診断の結果は平衡感覚が狂う三半規管の難病『メニエール病』と下された。


スポーツ選手としては致命的とも言えるその診断の結果を聞き、落胆を隠すことができなかった栗山であったが、それでも自らのグラブを取りグランドに立ち続けた。


 



 


1986年、入団3年目の年も栗山は前年に発症した『メニエール病』との闘いであった。


しかし、この年1軍でのレギュラー枠をつかみかけていた栗山は、目まいが起こっても首脳陣にはひた隠し、頭をクラクラさせながらも試合に出続けた。


手負いの状況にあった栗山であったが、この年は大きく飛躍を遂げる。


首脳陣の1番センターでの起用に見事に応え、一軍での試合に107試合に出場し、規定打席不足ながらも打率、301を記録。


毎試合のように走・攻・守に活躍し、いよいよ本格的なレギュラー獲りが見えてきていた。


だが、シーズンを通じて、『メニエール病』に悩まされていた栗山は、ついにこの年のオフに入院。


治療に専念をすることを余儀なくされてしまう。


 


『やはり、もう限界か・・・。』


 


栗山は完治が難しい難病との闘いに疲れ果てていた。


チームがアメリカのユマで行っていたキャンプにも参加できず、治療をしてもいつこの病が再発するか分からない将来への不安の中で、栗山は一人辛い入院生活を送っていた。


この頃、栗山は少しずつ自身の引退を考えるようになっていた。


だが、そんなある日。


栗山は病院でたまたま同じ棟に入院していた子供が自分よりもはるかに深刻な病を患っていることを知ることになる。


自分より年下のこの子どもが必死に病と闘っているのに、自分は現実から逃げることばかりを考えている。


栗山は自らの甘えた考えを省みた。


 


『また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう!』


 


と栗山は考えをあらため、再び現役続行を決意したのだった。


 


1987年、入団4年目の栗山は開幕には間に合ったものの、入院期間のブランクによる調整不足は大きく栗山はレギュラーを外され、試合出場も72試合にとどまり、打率、196と、この年、栗山は本来の自らのポテンシャルには程遠い成績でシーズンを終えることになってしまう。


さらに悪いことは続くもので、栗山はその年のオフのユマキャンプで不運にも左足の肉離れを起こしてしまうのである。


結局、栗山は満足な練習をすることができないまま帰国をすることとなった。


今までの栗山であれば、あっさりとユニフォームを脱いでしまったかもしれない。


だが、栗山はあの少年を思い出していた。


 


『もう一年、もう一年やってダメであれば野球を辞めよう。』


 


そうして、迎えた1988年の栗山入団5年目のシーズンは、前年の肉離れの影響で開幕から2ヶ月を棒に振る。


しかし、前年の猛練習の成果もあり、徐々にケガが回復していった栗山は怒涛の巻き返しをはかり、瞬く間にレギュラーを奪い返すと1番センターに定着。


規定打席に33打席届かなかったものの打率、331を記録。


影の首位打者としてヤクルトを4位へと浮上させる一翼をになったのだった。


翌、入団6年目の1989年も栗山は好調をキープ。


開幕から関根監督に2番センターに抜擢され、走・攻・守に一年を通じて大活躍。


125試合に出場し、打率は、255ながらも犠打41を記録し、見事にチームの繋ぎ役としての役目を果たした。


また、この年は守備でもファインプレーを連発。


バレーボールのダイビングレシーブばりに相手チームの打者のヒット性の当たりをキャッチ。


再三に渡り、チームのピンチを救ったことを評価されて、自身初のゴールデングラブ賞を受賞した。


栗山がプロで最も輝いていた年であった。


 


1990年、栗山がヤクルトに入団して7年目。


背番号も46から4へと軽くなり、チームからの栗山への期待度も増していた。


この年、ヤクルトの監督が関根から、野村にバトンタッチ。


野村監督は就任するや否や、当時無名だった柳田浩一を新しくセンターに抜擢。


それにより、栗山は再びレギュラーの座を追われてしまう。


それでも、栗山は数少ない出場試合で気を吐く。


東京ドームでの読売ジャイアンツとの開幕戦でも、ジャイアンツのルーキー大森剛が放ったプロ初打席のあわやサヨナラヒットになりかける飛球をダイビングキャッチ。


栗山のプロ野球選手としての最後の煌きであった。


その後、栗山は学生時代に痛めた右肘の故障が再発。


『メニエール病』のさらなる再発の不安もあり、ひっそりと現役生活にピリオドを打ったのだった。


 



 


実働7年で栗山が残した成績は、通産494試合に出場、打率、279 本塁打7 打点67


数字自体は特筆するべきところは無いかもしれない。


だが、その数字以上にグランドでガッツを魅せたプレーヤーに他ならない。


 


 


引退後、栗山は1991年からプロ野球解説者としてマイクを握り、そのかたわら大学の教授としても学生たちに教鞭を振るっていた。


同時に野球に関する著書を執筆したり、各メディアの監修を手がけた。


また、北海道の栗山町から自らの苗字が町の名前と同名という縁から観光大使を依頼されると栗山町民との親交も深め、2002年には私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた『栗の樹ファーム』を完成させている。


現在、『栗の樹ファーム』では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。


また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からは、HBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。


2011年11月3日、梨田昌孝監督の後任を受けて、北海道日本ハムファイターズの新監督に就任することが決定。


自身が尊敬する三原脩監督にちなみ背番号は80に決定。


来期からの采配にファンからの注目が集まっている。


 


※ この日記に使用している画像はすべて筆者の野球カードコレクションから引用しています。














































































































































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