代表校放浪記〜洲本おまけ

  • 仲本
    2012年03月03日 20:49 visibility320






(洲本港。遠くに見える緑の山並みは甲子園ではなくまだ淡路島である)
洲本を訪れるということで、洲本高校出身で高校野球にもゆかりの深い作詞家・阿久悠氏の自伝を下調べに読んでみた。

ところがご本人は、ふるさとといえばその通りかもしれないが…、となんだかそっけない。兵庫県警の巡査だった阿久氏の父親は淡路島内でいくつか赴任地を移ったらしく、阿久氏が大学進学のため上京してしばらくすると、両親は父の郷里・宮崎に帰ってしまった。そもそも親類が島にいるわけでもない。阿久氏も大学を出ると東京の広告代理店で若き疾風怒涛の時代を過ごす。少年のころから淡路島は「いつかは出ていくところ」と思っていたということだ。

洲本は島の東側、大阪湾に面しているが、阿久氏が少年時代を過ごしたのは島の西側、こちらはつまり瀬戸内海側にあたる。高校には島を横断するバスに乗って通った。島内には「瀬戸内少年野球団の像」というのが立っているがこれも島の西側の大きな公園の中にあるらしく、今回は足がないため訪れる時間がなかった。というわけでそっち方面も期待してた方がもしいたら申し訳ない。また何かの折に。

洲本の町ではついでに通りかかった小学校をのぞいてみたが校庭は静かで野球少年はいなかった。

バスターミナルのすぐそばに洲本の港がある。できれば船で渡りたいと思っていたが、橋が開通したおかげで大阪湾を渡る航路はすべて廃止。立派な待合所の建物は一部がモーターボートの場外舟券売場になり、少々寂しいことになっている。昭和28年の選抜初出場初優勝のときは優勝旗を持ち帰った選手を迎えるために洲本港頭は黒山の人だかりができたそうだ。

昭和50年の夏初出場のときは兵庫の決勝戦が津名高校との「淡路決戦」となり島が大いに沸いた。昭和61年春の出場のときの紹介記事には「昨年大鳴門橋が開通し四国のチームと練習試合が組みやすくなった」などと書いてある。今回、応援団は初めて明石海峡大橋を渡って甲子園に乗り込むことになるのだろう。淡路島随一の伝統校の甲子園出場は図らずも島の移り変わりも映している。

(洲本港の案内看板も今となってはどこか寂しい。バスチケットは当日乗車だとこんな感じのレシート)









































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