沖縄放浪記〜歴史の扉・首里高校/沖縄一中

  • 仲本
    2015年07月24日 23:55 visibility364




日本航空2087便は16時55分に那覇空港着。夏の沖縄は日没まではしばらく時間がある。



モノレールの首里駅を降りて周辺地図を確認すると、まっすぐ首里高校方面へ向かう。首里城公園の横を抜けて15分程度歩き、ようやく近くまでやって来た。







世界遺産にも登録された観光地のすぐそばだが、休日の夕刻とあってか、そこは人影もなく、しいんとしていた。



首里高校の門のあたりから案内板が立っている。この道を入れ、この角を曲がれ。間違いようがないほど現れる案内板が道を指し示す。一人でもよい、どうか本土の旅の人、ここに立ち寄ってこの若者たちに手を合わせてはくれまいか。











「一中健児之塔」。一中とは首里高校の前身である沖縄一中のことだ。



南海の要所にあったばかりに、先の大戦で戦場となった沖縄。一中の生徒たちも否応なく動員され、部隊に組み込まれ、そして多くのあたら若い命を失った。一中生徒・職員の戦没者の姓名が、黒々とした石に白く刻まれている。



高校野球100年の今年は戦後70年の節目でもある。夏の遠征先に沖縄を選んだのはその辺も考えに入れたからだ。黙して合掌する。







元来た道を首里高校へ。ようやく現代に戻った心持ちがして一息ついた。



首里高校の野球部は全国大会に春夏2回ずつの出場経験を持つ。昭和33年の夏、沖縄県勢としてはじめて甲子園にやって来た。敦賀高校に0−3で零封負けだった。



昭和38年に春の選抜に初出場。しかしPL学園・戸田投手に21個の三振を奪われて0−8の完封負け。これは今でも選抜大会の1試合最多奪三振記録になっている。



これに発奮したか、首里高校は夏の沖縄を制して春夏連続で全国大会にやって来た。初戦の日大山形戦、4−3と接戦を制して県勢初勝利を挙げた。ちなみに山形代表もこのときはまだ夏の大会で未勝利県だった。今年はいけるかも?両県民は組み合わせを見てそう思っただろう。



以来、沖縄代表は夏の全国大会での勝ち星を66まで積み上げた。勝率.589は全国10位とすっかり強豪県となった。































































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