謎と幻と〜愛知・もうひとつの「一中」?

  • 仲本
    2016年01月11日 11:08 visibility2286

(※今回は一部マニア向けです)

「幻の甲子園 戦時下の球児たち」(早坂隆著・文春文庫)を読み返してみると、こういうくだりがありました。
『大会三日目の第二試合に、一宮中学の選手たちが姿を現した。白い帽子に黒い一本線が入っているのが、同校伝統のデザインである。』

白い帽子に三本線は大阪の市岡、二本線は愛知の旭丘。ここまではよく知られていますが、うっかりこの記述を見落としていました。かつては少なくとも一校、白い帽子に一本線の学校が存在していたのです。愛知県の一宮中学、現在の一宮高校です。



瑞穂グラウンドから愛知県図書館にやって来ました。
ここには一宮高校と愛知一中、両校の野球部史と校史が所蔵されているので書庫から出してもらいます。

一宮中学は大正8年に愛知県立第六中学校として創立。大正11年に一宮中学と改称しました。「創立70周年記念 一宮高校野球部史」には昭和7年、昭和16年の写真が掲載されており、帽子の一本線が確認できます。戦時中にはユニフォームのデザインを変更しているチームも多いのですが、昭和7年時点の写真が残っているということは、もともとそういうデザインだった可能性が高いと思います。

当時の一宮は少年野球の盛んな土地柄で、県下の中等学校野球への選手供給源だったそうです。まあ野球部史は内々の話なので若干の誇張はあるでしょうが。

野球部は大正14年に夏の大会予選に参加しますが、初戦で愛知一中に0-27と大敗。しかしそこから5年後の昭和5年には春の選抜大会初出場を果たす躍進を見せ、戦前最後となった昭和16年の選抜大会では準優勝の成績を残しています。

昭和25年夏には愛知大会の決勝まで進みましたが、9回に逆転を許して全国大会出場はならず。このとき、準決勝でのちの400勝投手・金田の享栄商業を下しています。昭和17年はカウントされないため、いまだ夏の甲子園出場はなし、ということになっています。

で、先輩格の愛知一中がなぜ二本線なのかですが、愛知一中の野球部史・校史をめくってみてもこれといった理由は見当たりませんでした。明治40年ごろの写真で既に帽子に二本線が入っていることが確認できるため、これは一宮中学の創立より先です。

辛うじて当時の部員の回顧録に「補欠は白帽子、選手は白帽子に二本線」ということが書いてありますから、レギュラーとの識別のためなのか。しかし練習着と試合用が違うのは当たり前のことですし、なぜ二本線なのかははっきりしません。

視点を変えて、第一回早慶戦では慶応の選手が二本線の帽子をかぶっており、あるいは慶応OBがかかわっているのか、とも思いましたが、なにせ愛知一中の野球部の創設は明治20年代。遠征にやって来た慶応と試合して勝ったという記録すら残っています。どっちが先輩やねんという話です。



愛知一中の野球部史には学生野球の父・飛田穂洲翁が「最近は一回全国優勝したくらいで名門とちやほやされるから困ったものだ。愛知一中くらいまでにならないと真の名門とはいえない」云々という序文(社交辞令的な部分もあるでしょうが)を寄せているほどの伝統を誇るチームですから、今となっては「昔からそうだったからそうなのだとしか言いようがない」というのが真相なのでしょう。

なお、一宮高校、現在のユニフォームでは帽子のデザインが変わっているようです(胸に校章がついているのはほぼ同じ)。

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