伊丹放浪記追記〜発掘・野球部史

  • 仲本
    2010年06月10日 22:41 visibility900

遅くなりましたが県立伊丹高校のつづきです。
野球部は予選大会に準皆勤、となれば欠場した年(第2回大会)に何があったかちょっと気になっていた。調べる手立てはないかと、伊丹市立図書館をのぞいてみた。なにしろ1902(明治35)年創立の学校、地元には校史の一冊ぐらい置いてあるのではないかと思ったのだ。

校史どころではない。
「県立伊丹高校野球部史」、そのものズバリの資料があった。戦前編と戦後編に分かれている。


結論から先に言うと、第2回予選欠場の理由ははっきりしない。大会前にレギュラー捕手をはじめ選手に病人が続出してやむを得ず…、というところらしい。


第1回大会予選では初戦で神戸一中に敗れたが、その時のスコアは下記の通り。


伊丹中 300 000 300 /  6


神戸一 400 200 35X / 14


初期の野球で両チーム安打よりも四死球の走者が倍ほど出ているが、当時関西学院と並んで本命視された神戸一中に終盤7回に一度は追いつく大健闘との新聞評が付いている。16時10分に試合開始、終了19時05分とある。夏の夕方とはいえ終盤は暗くて大変だったかも。



大正時代当時の写真をみると、ユニホームの胸はローマ字筆記体で「Itami」、帽子は白地に黒2本線を巻いている。帽子のラインはともかくとして、筆記体の「Itami」のほうは昭和40年代後半までユニホームに残っていた。その後はブロック体で「KENITAMI」に変わっている(ありがたいことに、写真もたくさん掲載されていた)。この前訪れたときにはよく見えなかったが。

この野球部史、まえがきによるとOBの方が資料を集めて作られたもので、きっかけは同じ兵庫の明石高校が1984(昭和59年)、24年ぶりに夏の選手権復活出場を果たしたときにさかのぼるという。「古豪復活」と地元ではかなり話題になった。

それを言うなら県伊丹の球史は明石より古いはず。もし甲子園出場が成ったとき、誇るべき球史が散逸していたら困るではないか―。かくして、戦前編が昭和61年、戦後編が平成3年に発行となっている。結果的に、兵庫県内において一高校の球史がまとめられた先駆けになったのだとか。


公立校は学区の縛りがあり、好選手を集められない事情がある。特にこの地域は先頃まで「地元最優先」のような入試制度をとっていて、部員数の減少に苦しんだ時期もあったという。ドカベン香川のころの浪商に練習試合に行ったとき「お前ら9人で来たのか」と驚かれたなんていう話もあったらしい。プロのスカウトが見に来るような速球派投手を擁した代もあったが、大会ではケガに泣いた。
たいていの野球部にあてはまることだが、悲願達成への道のりは長く険しいのだ。

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