六稜の星が輝いた時。

昭和24年は日本が戦争から立ち上がろうとしているそんな時期。

 

人々は戦争で疲弊した心を何かで癒すのに、何かに拠り所を見つける為に必死だったのではなかったのだろうか?

 

毎日毎日を暮らすの精一杯、そんな時期でも国民の中には一途の光明として「甲子園」と言うのは少しばかりの楽しみではなかったのではなかろうか?

 

1949年(昭和24年)第21回選抜高校野球大会は各地区代表16校が参加して4月1日から10日間甲子園球場で開催された。

 

北海道、東北からの参加はなし、関東に置いても慶應二高と日川のみと言う、西日本中心の大会であったが、その理由は定かではない。

 

そんな中ベスト4には

芦屋高校

小倉高校

岐阜商業

北野高校

が勝ち上がって来た。

 

今で言う文武両道の高校が勝ち上がる。

 

第一試合は芦屋の有本投手が小倉の福島投手に投げ勝ち、小倉を散発3安打に抑え4-0で決勝戦へ。

 

第二試合は際どい試合になったが、北野が7回表に決勝点をあげ3-2で逃げ切ったが、多胡→山本の継投で岐阜商業打線を僅か2安打に抑えたのは大きかった。

 

決勝戦は北野🆚芦屋の地元対決となり、さぞ盛り上がったであろう

試合は6回まで0−0と均衡が破られず、7回先頭の多胡投手が左翼線に二塁打をして、次打者が送り、スクイズの構えから、右翼にフライを打ち上げ先制、8回にも追加点を取り北野が優勝に近づく。

 

小柄な左腕からカーブ、とシュートを巧みに投げ分ける多胡投手

対する芦屋の有本投手も、多胡投手よりも一回り小さいが精密機械の様なコントロール。

 

しぶとい、芦屋は9回2点をもぎ取り土壇場で同点。

 

延長10回細雨降る中、北野は2番広瀬が四球、長谷川が安打と中堅失策で2.3塁、ここでまたも多胡が適時打で2点をあげて4-2。

「あっ!これで決まりだ!」と誰もが思ったが、芦屋もしぶとい。

 

10回裏リリーフの山本が優勝を初めて意識したのか?乱れて2死球、慌てて多胡投手をマウンドに戻したが、野手失策により再び同点とし4-4。

 

12回北野は1番市村の四球と広瀬の中前安打に次ぐ失策で1点、3番の長谷川のスクイズで計2点を奪い6-4とした。

 

芦屋には3度目の反撃にでたが、その2点差を返す事は出来なかったのだ。

 

大阪府立北野高校。

今や大阪府内での偏差値は1〜2位を誇る学力優秀な高校である。

毎年東大、京大等にも合格者を多数輩出する名門校。

 

そんな高校が選抜大会優勝した事に興味が生まれ今回この野球部史を購入する事にしたのだ。

 

胸に六稜の星のみのシンプルなデザインのユニフォーム。

そのユニフォームは昔も今も変わっていない。

 

また、いつか?「六稜の星」が輝く日が来るのであろうか?

私はその日をひたすら待ち続けている。

 

PS:古い話なので誤りが有ればご指摘頂きたくお願いします。🙇‍♂️。

 

☆六稜の星に輝く 北野高校野球部史より引用。

☆選抜高校野球四十年史より引用。

 

 

 

 

 

 

 

 

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