松本深志

「松本中学ただ一回の夏の回想」

 

昭和22年戦後間もない頃で、日本も混乱の世で有ったに違いない。

 

長野県は元々は教育県で

その中でも松本中学(現:松本深志高校)。は秀才、才女の集まる中学で有った。

 

当時松本中学(現:松本深志高校)野球部は長野県内でも、弱小で試合や予選会に出ても松本市中(現:松本美須々ヶ丘)。や松本商(現:松商学園)とは雲泥の差で負けが込んでいたのだった。

 

そんな中、東京から一人の少年が転校して来た。

その名は萩元晴彦で有った。

萩元は後に敏腕テレビ制作者、テレビプロデューサーとしてその名を世に知らしめるのである。

 

1946年(昭和21年)松本中学から日大で野球を学んだ大島中夫が監督に就任すると、俄然チームが変わり、それまで萩元は三塁手をやっていたが、投げ方が良いと言うことで投手を命じられた。

 

この年は萩元のリリーフ登板などもあり準決勝に進出したが、またしても松本市中に3-16で敗れた。

 

翌年1947年(昭和22年)エース萩元も昨年の自信と大島中夫の指導法が功を奏した。

 

大島の教えは極めてシンプル

「野球は、負けない様にはやれば良い1点リードしている時に相手を0点に抑えなくて良い、1点を与えたって同点だ!、試合が終わって勝ってれば良いんだ」と言った具合である。

また大島は無駄な力が入ってはいいプレーが出来ないから「ピンコラ、ピンコラ」しておけ!という指示をだした。

所謂、身体を気持ちを楽にしておけ!という擬似語での指示なのだ。

 

その年は中等野球大会最後の大会

エース萩元投手は調子が良かった。

長野商 2-1

松本商5-4

準決勝上田中 4-0

松本中は松本市中と信越大会への出場を決めたのだ。

 

信越大会は

新潟商3-2と破り、松本市中も柏崎中を破り長野決戦となった。

そして相手は長年疎き目に遭っている松本市中。

 

試合は8月4日 新潟白山球場で行われた。

試合は松本市中に2点を先制されるも9回土壇場で同点に追い付き、延長戦へ。

 

松本市中 平野

松本中学 萩元の好投は果てしなく続き、延長23回表二死1.2塁から池上健が三遊間を割り貴重な2点をもぎ取った。

 

萩元投手278球の力投であった。

 

その後雨で日程が遅れていた長野大会決勝が行われ、その時は松本市中が勝利している。

 

第29回全国中等野球選手権大会に出場の松本中学は8月14日初戦は南関東の強豪成田中学と対戦。

 

エース萩元は甲子園入り後に疲労からか?扁桃腺を腫らし、体調不十分で2回に一挙6点を奪われ、久根下のリリーフを仰いだが0-10と大敗を喫してしまった。

 

松本中学現松本深志高校。

伝統的な胸のトンボのマークが印象的である。

 

この野球部史を手に入れた時、直ぐ萩元さんと、この部史を編纂に尽力されたマネージャーの宮澤和夫さんの事を思い出した。

 

あの夏からもう78年も経過する。

また、

蜻蛉元気に甲子園のグランドを飛び回る姿を是非見てみたいものである。

 

☆にっぽんの高校野球 北信越編(ベースボール・マガジン社)。

☆松本深志高校 野球部の一世紀より引用

 

※文章構成上敬称は略させて頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

sell野球

chat コメント 

コメントをもっと見る

通報するとLaBOLA事務局に報告されます。
全ての通報に対応できるとは限りませんので、予めご了承ください。

  • 事務局に通報しました。