消えた球場(27) 高松中央球場
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Mr.black
2013年06月19日 10:35 visibility7336
3年前に高松へ遠征した時には鉄道を利用しましたが、今回は高速バスを使いました。JR大阪駅からJR高松駅へ行くバス路線。
終点の高松駅に行く手前で停留所がいくつかあります。そのひとつ「県庁通り」で下車。停留所のすぐ横には高松中央公園があります。
かつてこの公園は「高松市立中央球場」でした。
戦時中の空襲で焼け野原になった高松市内。戦後復興の一環としてこの地に野球場が建設されることになりました。戦後ということで建設資材や労働力が不足していた時期。市民が資材の提供を行い、さらに勤労奉仕も行ったという逸話が残っています。
この勤労奉仕には学生も動員され、高松商業や高松高校(当時は高松中学)の生徒が球場建設を手伝ったということ。文字通り市民の力で作られた野球場だったわけです。
完成したのは1947年(昭和22年)5月。
グランドは両翼92m、センター113m、内野クレー、外野天然芝。スタンドの収容は1万人だったと言われています。限られた土地だったのでグランドが狭いですね。
しかし市内中心部という絶好の立地条件。県のメイン球場としてアマ野球の主だった試合はほとんどがここで行われました。さらにはプロ野球も開催されたということです。
↑ 正面スタンドはこの周辺だったと思われます。
しかし上記のようにグランドが狭くなおかつ外野スタンドが無かった為、プロ野球では打球が頻繁に場外に。これで安全面が疑問視され、やがてプロ野球は開催されなくなり、アマ専用球場になりました。
後年金属バットが採用され、なおかつ選手の体格が良くなると高校野球の試合でも打球が場外に出ることが多くなりました。
さらに球場の老朽化が顕著になり、別な場所に新しい球場の建設が求められるようになりました。その候補地となったのが市郊外の塩田跡地。やがてそこに香川県営球場(現:レクザムスタジアム)という立派なスタジアムが完成しました。これで役目を終えた中央球場は閉鎖されることに。
↑ 香川県営球場(レクザムスタジアム)。現在の県のメイン球場です。高松市生島町にあります。
高松中央球場最後の試合は1982年(昭和57年)の4月、高校野球春季香川大会の決勝「尽誠学園ー丸亀商業(現:丸亀城西高校)戦」でした。
試合終了後のセレモニーで招集されていた県内各校の野球部員たちによって「サヨナラ 57」という人文字がグランドに作られました。57は昭和57年を表しています。
球場建設に携わった多くの方々はこの閉鎖当時どんな思いが頭に浮かんだことでしょうか。
跡地は既述の通り「高松市立中央公園」になっています。
そもそも戦後最初の計画ではここに公園が作られるはずだったということ。それが予定変更で野球場が建設されたのですが、35年後に公園になったという不思議な歴史があります。
公園にはかつての1・2・3塁及びホームベースの位置に石が埋め込まれているということで探してみました。
見つかりました。位置的に1塁ベースだと思われます。公園の中央西側付近にあります。
一つ見つけると後は比較的簡単。これが2塁ベース跡。
しかし残念なことに3塁ベース跡とホームベース跡は見つけられませんでした。何故ならば芝生の養生中でその辺りが立ち入り禁止になっていたからです。
写真のどこかにホームベース跡があるはずですが、そういう事情で入れなかったのです。
「野球場・グランドを大切に」と普段言っている自分がロープを乗り越えて養生中の芝生を踏みつけるなどということは出来ません。残念ながら諦めました。
この公園内には香川県出身の著名人の銅像がいくつも作ってありました。これは香川が生んだ偉大な野球人お二人の像。
左が水原茂氏、右が三原脩氏の像です。
巨人のユニを着用した水原茂像。(高松商業→慶応大)
西鉄のユニを着用した三原脩像。(丸亀中学→(転校)高松中学→早稲田大)
時にチームメイトとして協力し、時に他チームに分かれて戦った終生のライバル同士ですね。
ゆくゆくは中西太氏の像も作ってほしいものです。(中西氏は高松一高出身)
そしてもしいつかここに再訪することが出来、その時芝生内に入れたらホームベース跡も見分したいものです。
後々の楽しみが残ったと思いながら公園を去りました。
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