消えた球場(31) 初代・下関球場
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Mr.black
2014年05月15日 13:02 visibility3601
「大洋はのう、昔下関におったんやけえの」
これは佐竹敏之氏著 「大洋ホエールズ誕生前!」の冒頭からの引用です。
著者の父親の口癖だったそうです。
前回も書きましたが現存する下関球場は二代目であり、かつて大洋ホエールズが本拠地としていた球場とは別物なのです。
初代・下関球場は現球場よりも町の中心部に近い下関市向洋町にありました。
完成したのは1949年(昭和24年)。これは実にタイムリーな時期でした。
当時読売の正力松太郎氏が日本プロ野球の2リーグ化を計画しており、その為に球団数拡張を目指していたのです。
かねてから自社の実業団野球部を強化していた大洋漁業(旧・林兼商店)はこの波に乗り、プロ野球チームを創設。当初の名称(仮称)は屋号からとって「マルハ球団」(※)。のち正式に球団が出来た時に「大洋ホエールズ」となります。1950年のことです。
↑(※)「まるは球団」と平仮名表記してある書物もあり。ここでは「大洋ホエールズ誕生前!」の表記を使用。
下関が会社の拠点であった大洋漁業は当然のごとく本拠地を建設間もない下関球場に設定します。日本プロ野球がこの後(1952年)から各球団に「フランチャイズを設定すること」を求めましたが、このあたりのタイミングは絶妙だったと思います。
しかし大洋ホエールズと下関球場との関係は長続きはしませんでした。
セパ2リーグ化したものの、急速に球団数を増やした為に観客が分散し、集客と経営に悩む球団が出始めたのです。そういうこともあって増えすぎた球団統合の動きも出てきました。
1953年、大洋は松竹ロビンスと球団統合。チーム名は「大洋松竹ロビンス」(略称:洋松ロビンス)となります。
そして松竹が難波の大阪球場を本拠地としていた為、下関と大阪のダブルフランチャイズ制を導入。(当時のフランチャイズ制は現在よりも縛りが緩かったようです。)
しかし洋松ロビンスは大阪球場を実質のメイン球場として試合開催。地方都市下関よりも大都市に行った方が集客が容易という考えがこの頃球団内に芽生えたのだと思います。
やがて松竹がプロ野球経営の情熱を失って撤退すると大洋は球団名をホエールズに戻し、川崎に移転します。それは1955年のこと。これが今日の横浜フランチャイズ化に繋がるわけですね。
林兼商店野球部時代からの下関との繋がりは川崎移転により途切れてしまいました。
(ただし実業団野球部の再運営は短い間でしたが下関で継続されました。チーム名は「全下関」。1951年まで存在していたようです。)
その後も下関球場はアマチュア用の野球場として向洋町で存続していましたが、老朽化により1985年(昭和60年)に閉鎖解体されました。
現在の二代目球場が郊外に完成したのはその3年後の1988年(昭和63年)とのこと。
さて、解体された初代球場の跡地はどうなったのでしょうか?
現在は市立市民病院になっています。
パッと見たところここがかつての野球場跡とは思えません。
しかし敷地をぐるりと回ると多少いびつな円形をしています。それが唯一この場所が野球場だったことを示しているだけです。
時間が無かったのでゆっくり見物できず、なのでこの周辺に「かつてここが下関球場だった」ことを示す物があるかどうかは確認出来ませんでした。
なかなか難しいと思いますが、もしこの地にいつか再訪する機会があったら次回は周辺を歩いてゆっくり見分したいものです。
そうすれば球場の様子がもっとはっきり掴めることでしょう。
ところで病院の東側には陸上競技場などがあり、それらは昔球場があった時から存在している施設です。
なので昔の航空写真と現在の航空写真を見比べるとこの場所が下関球場だったことははっきり確認できます。
大洋球団の川崎移転で下関とホエールズの関係は途切れましたが、前回も書きましたように完全に切れたわけではありません。
「大洋はのう、昔下関におったんやけえの」
この言葉は球団が去ったことによる寂寥感とそれでも球団を愛する気持ちが地元民に残っていることの表れなのだと思っています。
現代だと東京在住の日ハムファンがこういう心境なのかもしれませんね。
ファンと球団の繋がりは尊いものです。
今回の下関遠征記はこれで終了です。
長い話にお付き合いいただきありがとうございました。
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