消えた球場(19) 寝屋川球場(京阪グラウンド)
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Mr.black
2011年01月31日 13:31 visibility12132
大阪府寝屋川市豊野町。私鉄京阪本線「寝屋川市駅」の北東にかつて「京阪グラウンド」という大きなスポーツ総合公園がありました。
このグラウンドの一角に京阪が所有の「寝屋川球場」という大きな野球場があったそうです。
球場の詳細なスペックは不明ですが、その規模は甲子園が完成するまでは日本一だったということです。
建設されたのは大正11年(1922年)の8月。
球場は現在の寝屋川市役所~北側の道路~北側の住宅地あたりにあったと言われています。(下の写真左の大きな建物が市役所。)
当時はまだプロ野球はちゃんと形成されていなかったので主に実業団の試合が行われていたそうです。更に後には中等学校野球大阪大会の会場にもなりました。
この立派な野球場に目をつけたのが阪急の小林一三氏。
同氏は自社の所有する宝塚球場、及び運営していた宝塚運動協会を軸に阪神の甲子園球場と京阪の寝屋川球場などを本拠地とした電鉄リーグ(プロ野球リーグ)構想を立ち上げたのです。この頃、京阪は野球部を所有していたのでそれをプロ野球団にということも考えていたようです。
また、その一方でこの当時始まったばかりのセンバツ大会をこの寝屋川球場に誘致するという話も出ていました。これには主催者である大阪毎日新聞社も乗り気だったといわれています。地元大阪に主催地を持って来たいという毎日側の思惑もあったのではないでしょうか?
しかしそこには大きな問題が起こりました。立派な規模とはいえそれはあくまでも「グラウンド」のことであり、プロ野球や中等野球(センバツ)を誘致するためには観客席を大規模に増設する必要があったのです。
さらにもう一つの大きなネックは「春の行楽」でした。
京阪は一大観光都市である京都と大阪とを結ぶ路線です。春には大勢の観光客の輸送をしなければならず、センバツと重なった場合の輸送の問題が社内で論じられました。
更に昭和恐慌が起こり、負債の処理に追われた京阪は寝屋川球場の大規模改修を断念。同時にプロ野球への参入も諦めたのです。
これにより小林氏の電鉄リーグ構想も崩壊しました。
その後戦前の1933年(昭和8年)あたりまではこの寝屋川球場で中等学校野球大阪大会が行われていたそうですが、京阪が本業の運輸に注力し、それ以外の業務を縮小したこともあって1942年(昭和17年)頃に球場を含む広大なグラウンドは全て住宅営団に売却されてしまったのです。
現在その周辺は住宅・店舗・市役所・道路などになっており、全く過去の姿は想像できないほどになっています。唯一、「八坂町交差点」の北東の角に京阪が寄贈したという「寝屋川球場記念碑」が建っていることだけがこの地がかつて野球場だったことを示しているに過ぎません。
周囲を徘徊して
「ここに甲子園に並ぶ巨大球場が建設されていたら今でもセンバツ大会が開催されていただろうか?」、
「京阪が阪急に追随してプロ野球団を結成していたら関西に電鉄リーグは立ち上がっただろうか?」、
「プロ野球は関東ではなく、関西が中心になって運営されていただろうか?」、
などと様々な思いが湧き上がって来ました。
全ては「たられば」の世界ではありますが、関西大手私鉄5社の夢舞台になっていた可能性のある土地。
その私鉄5社の中で唯一プロ野球を持てなかった京阪の当時の関係者の思いも感じました。
余談ながらこちらは現存する「寝屋川公園第一野球場」。
一昨年まで高校野球大阪大会の会場でした。(昨年は利用されず。)
しかし場所は全く違いますし、こちらは大阪府営の野球場です。
旧・寝屋川球場は京阪沿線、こちらの寝屋川球場はJR沿線です。
調べた限りでは旧・寝屋川球場及び京阪グラウンドの写真は全く見当たりませんでした。はたしてどんな野球場だったのでしょうか?
全ては「幻のごとくなり」です。
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