ある旅の終わりは次の旅に続く始まり・・・・

この記事は、父が亡くなった昨年11月に書いたものです。悪しからずm(_ _)m





もし、「安堵」という言葉を形にできるとしたら、まさに父が息を引き取ったときの顔を言うのであろう。口元に笑みを湛え安心しきった表情であった。父のこのような顔を今までに見たことはなかった。迫って来る終焉に対する恐怖から解放されたからか?それとも、ひとつの人生に終止符を打ち、ある種の達成感から来る安堵なのであろうか?

父とは最後までわかり合えなかった・・・・
私の認識では、父という人物は私が最も受け入れることができない人物のひとりであった。

母との思い出はいくらでも思い出すことができる。でも、父との思い出は・・・・あっ、確かに子どもの頃よくプラモデルを一緒に作ってもらったかな?一緒に作ってもらったというよりも、一から十まで作ってもらったと言った方が正確なのかも知れない。そう言えば、母が留守のときご飯も作ってもらったっけ。父は父なりに私たちを慈しんでくれたのであろう。それを、檻の中に閉じ込められた私の意識はただ単に理解できなかっただけなのかもしれない・・・・

ある人は、人の死はちょっと隣に行くようなものだと言う。自分が何処から来たのか、感覚的に知っていると言う人もいる。最先端の宇宙物理学では、この宇宙はある意志の下に創造されたという仮説も存在する。どうやらヴィトゲンシュタインの言う、「この世の中はたまたまの偶然ばかり」ではないらしい。別に、白髪の爺さんを形どったヒューマノイドがいるわけではない。形のない意志があるだけである。だとすれば、我々の意志または意識が肉体が崩壊したあとも残ったとしても不思議はない。ある人は、それを「オーブ」と呼ぶ。

いずれにせよ、母を追い掛けるようにして父の肉体は崩壊のときを迎えた。今のところ、私が然したる喪失感を持ち得ないのはそんな理由からかも知れない。今では父のすべてを許すことができる。しかし、父と本当の意味でわかり合うのは次のステージの課題とするかな?

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