ピックアップレジェンドサッカープレイヤー No.280

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    2024年10月20日 22:46 visibility170

山田 隆裕(やまだ たかひろ)

国籍 日本

生年月日 1972/4/29

出身地 大阪府高槻市

身長/体重 175cm/80kg

ポジション FW(WG)、MF(SMF)

利き足 右

代表デビュー 1994年9月27日オーストラリア戦

主な出場大会 なし

 

プレースタイル

独特のステップとスピードが同居したドリブルで相手を置き去りにし、右足で高精度クロスを上げてチャンスを作るウインガー。自らもカットインからのシュートでゴールを狙う。

 

経歴

6歳の時にサッカーを始める。小学校3年の時に選抜チームの清水FCに入り、6年の時には全日本少年サッカー大会でベスト8進出を果たし、中学3年の時には東海選抜に選出され、全日本選抜中学生サッカー大会で優勝を経験した。その後清水市立商業高校へ進学し、ここでは1年からレギュラーに定着し、同年に行われた全国高校サッカー選手権大会では決勝の市立船橋戦で決勝点を挙げてチームの優勝に貢献。2・3年の時には2年連続でインターハイと全日本ユース選手権大会制覇に貢献した。また高校2年からは日本ユース代表に選出された。

 

高校卒業後は日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に入部。日産でもスピードとドリブルを武器にサイドからのチャンスメイクで早々にほぼレギュラーポジションを掴む活躍を見せ、1991年の天皇杯決勝・読売クラブ戦では途中出場から得点を決め優勝に貢献した。1992年にはハンス・オフト監督の指揮する日本代表に選出され、1994年にA代表デビューを果たした。1995年には1stステージ優勝、年間では43試合に出場してチーム3位となる7得点を記録し、チャンピオンシップでも活躍し、ヴェルディを破って優勝を果たした。

 

その後1998年に京都パープルサンガに移籍後、1999年には期限付き移籍によりヴェルディ川崎でプレー。それぞれのクラブで主力として活躍したが、移籍期間終了後は京都を退団。その後一度は引退したが、2000年には横浜マリノス時代に指揮を受けた清水秀彦監督に誘われベガルタ仙台に加入、ここではチャンスメーカーとして活躍し、2001年にはJ2リーグ戦28試合に出場して3得点を記録してJ1昇格に貢献。2003年シーズン途中で現役を引退した。

 

引退後はメロパン販売やバー経営を経て、全国でサッカースクールや講演活動などを精力的に行う傍ら日本サッカー協会こころのプロジェクトで夢先生としても数多く登壇している。

 

代表記録:1試合

 

皆さん、こんばんは!

またも有名人の訃報が報道されました・・・。

日本のお茶の間のファッション界を盛り上げたピーコさんが敗血症による多臓器不全で79歳で亡くなったことが報道されました・・・。

西田敏行さんに続き、もうこれは〇クチンの影響としか思えません・・・。

日本人よ!目を覚ませ!我々も同じような目に遭うぞ!

政府を中心とした我々日本人の質が落ちていることにより、国の力も落ちていること明白・・・。

この長くなりそうな冬を生き延びるためにしっかりと正しい情報を得ていきましょう!

 

さて今回は引退選手の紹介でかつてはマリノスのスター選手として活躍し、今ではサッカーの指導者としても精力的に活動する山田隆裕氏です!

 

山田氏は小学校から活躍していましたが、清水商業高校では1年からレギュラーとして活躍し、選手権やインターハイ、高円宮杯での優勝を経験しました!

また中学時代は家庭の都合でアルバイトとサッカーの練習を両立させていました!

 

そして高校卒業後も日産やマリノスで活躍し、31歳になる年である2003年シーズン途中に現役を引退しました!

 

引退後はメロンパン販売で一時期成功したものの、その後挫折し、スポーツバーを経営しました!

ちなみにW杯の時にテレビに山田氏が取り上げられて、スポーツバーでW杯の試合の放送をやっているけど山田氏は店の仕事で忙しく試合を見れていないという姿をテレビで見たのを覚えています(笑)

 

その後も全国でサッカースクールや講演活動などを精力的に行う傍ら日本サッカー協会こころのプロジェクトで夢先生としても数多く登壇するなどサッカー界にも貢献している模様!

 

ぜひ今後も充実したセカンドキャリアを過ごして、後に入ってくる若い世代に山田氏の貴重な経験を伝えてほしいと思います!

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