惜別!去り行く虎戦士を振り返る�
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そらまめ
2008年01月12日 17:30 visibility1338
このシーズンオフ当初から移籍の噂が絶えなかったですね。
シリーズ「去り行く虎戦士を振り返る」2回目はこの方です。
濱中治外野手(オリックス移籍)
濱中・吉野−平野・阿部の交換トレードでオリックスに移籍となり退団となった。
和歌山の南部高校から1996年のドラフト3位で阪神タイガースに指名され入団。
入団会見では「甲子園で場外ホームランを打ちたい」と発言したことは有名。
しかし、未だそれを実現することなく、縦縞のユニフォームを脱いだ。
和製大砲到来と期待され、入団1年目からウエスタン・リーグで4番を任され、掛布雅之以来となる高卒新人での1軍スタメン出場を果たすなど頭角を現した。
2001年、母の日の5月13日、母親をスタンドに招待していた広島東洋カープ戦(甲子園)で、プロ入り初ホームランとなるサヨナラツーランを放った。
このときから、一部には濱中はマザコンだとの噂が立ち上がった。
しかし母親はこのホームランの時には球場を後にしていたという。
それ以降後半戦は3番に定着し初の規定打席到達、13本塁打を記録。
2002年は7月24日の読売ジャイアンツ戦でサヨナラホームラン。
しかし、8月にナゴヤドームでの試合でダイビングキャッチを試みた際に親指を骨折。
2003年は、開幕から4番に座って4月中に10本塁打到達し、打点を量産。
しかし、5月20日に広島戦で帰塁の際に右肩を負傷。
さらに6月13日の巨人戦では送球の際に右肩を脱臼。
手術で後半戦を棒に振るが、日本シリーズには指名打者で出場した。
2004年は、背番号を31に変更し、復活が期待されたが、再び右肩を痛めて手術。
2005年は、セ・パ交流戦からようやく指名打者として復帰。交流戦終了後は代打での出場が主になった。
2006年は、背番号を5に変更して完全復活へと挑み、春には打率.435・10本塁打・打点22をマークし、3・4月度の月間MVPを獲得。
後半は今岡誠内野手の故障もあり、5番打者として起用され、最終的には20本塁打とようやく自己最高の成績を残した。
7月14日のオールスターにファン投票で選出された代替選手(巨人(当時)の小久保裕紀内野手が怪我で出場を辞退したため)として出場した。
ようやく、フルシーズン働けるようになったかと思った2007年は、自身の不振と再びの故障。
林威助・桜井広大両選手や後輩たちの台頭があり、一軍と二軍を往復するシーズンで不本意な成績に終った。
ここで、怪我もなく、2006年並の働きをしていたら、濱中の置かれた境遇は変わっていたはずだった。
結局、濱中のタイガース時代は、どうしても怪我に弱い選手で、フルシーズンは働けないと言うレッテルをはがすことが出来なかった。
また、その怪我で2003年・2004年と2度の手術を行った右肩は、既にランナーを抑止できない“弱肩”とも言われている。
濱中が右翼手として守備に着いた時は、ランナーを置いて打球が右翼に飛んできた場合、二塁手が通常よりさらに深いところで中継に入り、濱中の弱肩をカバーするという方法がとられた。
次に肩を壊したら二度と野球ができなくなるとも言われており。ある意味、いつ爆発するかわからない負の爆弾を背負わされている。
昨年、11月26日にオリックスの阿部健太投手、平野恵一内野手との交換トレードで吉野誠投手とともにオリックスに移籍が発表された。
12月3日付けでオリックスの支配下選手に登録され、12月5日に入団会見を行い、年俸は現状維持の7000万円(推定)で背番号は7番。
「右肩の不安を(周囲から)言われますが、自分は外野手1本でやることを考えています」と決意表明している。
恐れられている負の爆弾を爆発させることなく、正の爆弾を爆発させ、攻守に輝きを見せて欲しい。
2003年に離婚。現在は独身。女子バレーボールの菅山かおる選手との交際も噂に上がっている。
年齢的にも境遇的にも、もう後がない濱中。
タイガースファンの中にも多くの濱中シンパがいる。
それらファンのためにも、心機一転、オリックスでの大活躍を期待したいものである。
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- 事務局に通報しました。
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