☆日本野球史上初の満塁策~福岡高校~
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鶴丸 深志’
2018年02月12日 08:24 visibility7201
福岡中学(現・岩手県立福岡高校)が初めて甲子園に出場したのは、1927年(昭和2年)の第13回全国中等学校優勝野球大会で、その時の捕手が村田選手であった。初戦で同じく初出場の桐生中学に 4 - 1 で勝利し、準々決勝で高松商と対戦した。0 - 0 で迎えた9回裏、1死三塁というサヨナラのピンチを迎えると、村田捕手は戸来投手に2者連続敬遠を指示した。村田捕手は臨時コーチとして来ていた明治大学の天知俊一氏(のちの中日監督)から「サヨナラ負けなら2点入っても同じなので、満塁にした方が守りやすい」という秘策を教わっていたのだ。
戸来投手が2人連続して敬遠すると、これまでこのような策を見たことがなかった観客はどよめいた。次の打者に対し、村田捕手は2球目をウエストさせてスクイズを外し、飛び出した三塁ランナー水原茂選手(のちに巨人で活躍)を刺して2死。そのまま打者を三振に打ち取り、ピンチを切り抜けた。三本間での挟殺となったため、封殺もしくは併殺を狙う満塁策の効果は無かったが、これが日本野球史上初の満塁策とされている。なお、福岡中学はこの試合、延長12回の末、0 - 1 で敗れた。
福岡高校は1901年(明治34年)に創立され、岩手県内では3番目に古い歴史を有し、県北地域を代表する進学校である。
野球部も1901年(明治34年)に創部され、岩手県内では盛岡一高に次いで、一関一高と並ぶ歴史を有する。
福岡高校といえば、夏の甲子園には岩手県最多となる10回出場している一方で、春の選抜には一度も出場していない。また、純白に「H」のマークのユニフォームが特徴的である。
なぜ、福岡なのに「H」のマークなのだろうか?
1926年(大正15年)、夏の予選決勝で盛岡中学(現・盛岡一高)に再試合で敗れた不運を何とか払拭しようと猛練習を重ね、夏から秋にかけての練習試合では連戦連勝を続け、来年こそは甲子園と地元の期待も高まった。そんな中、誰からともなくユニフォームを変えようと提案された。というのも、盛岡中学が早稲田カラーのユニフォームで、福岡中学も胸に「FUKUOKA」の早稲田カラーであり、試合中に混乱が生じた。野球部長は当時の強豪であった和歌山中学の「W」のユニフォームを意識して、「F」の一文字を採用しようと考えた。しかし、左右対称の文字ではなく、何となくしっくり来ないと感じていた。どうしたものかと思案しているときに、「日本式ローマ字に改める建議」のことを知った。
1926年(大正15年) 12月、「鉄道駅の標記を日本式ローマ字に改める建議」がなされた。地元の福岡駅も「HUKUOKA」と表記されるようになった。「これだ」と閃いたのが「H」のユニフォームだった。早速、監督に相談し「H」のユニフォームを採用することが決定した。そして、昭和に入り「H」のユニフォームとともに福岡中学野球部の活躍が始まったのだ。
年号が平成に変わってから福岡高校は甲子園出場がない。「H」のマークの福岡高校の甲子園復活に期待したい。
以上です。
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