☆平成最初の選手権大会 千葉県代表校~成東高校~
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鶴丸 深志’
2019年07月14日 07:24 visibility3031
成東高校は1900年(明治33年)に千葉県佐倉中学校成東分校として創立された伝統を有する。偏差値は理数科64、普通科62で山武地区屈指の進学校である。
野球部は1902年(明治35年)に創部され、千葉県内では佐倉高校、県千葉高校、成田高校、銚子商業、木更津高校、安房高校、茂原樟陽高校に次いで、佐原高校、長生高校と並ぶ歴史を有する。
夏の全国大会予選には、1922年(大正11年)第8回大会予選(関東大会)に初参加し、初戦で成田中に 16 - 5 で勝利し初勝利も挙げた。
甲子園には1989年の第71回夏の選手権大会に平成最初の千葉県代表として、一度だけ出場している。甲子園通算成績は1勝1敗である。
成東は野球部の長い歴史の中で、幾度となく優勝候補の一角に挙げられてきたが、平成元年の初出場まではあと一歩のところで涙を呑んできた。
特に銚子商との戦いでは、1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)まで4年連続1点差で敗れることとなる。(銚子商 1 - 0 成東、銚子商 1 - 0 成東、銚子商 1 - 0 成東、銚子商 2 - 1 成東)
そしていつしか、人々は「悲運の成東」と呼ぶようになった。
1989年7月27日、元号が平成に変わった千葉県大会準々決勝の組合せは、銚子商と成東の試合となった。
この年の成東には、大会屈指の大型右腕・押尾健一投手(元ヤクルト)がいた。
因縁の対決は、予想通り手に汗握る大熱戦となった。延長13回の末、2 - 1 で成東が劇的なサヨナラ勝利を収めた。
続く準決勝では、習志野に 6 - 2 で勝利し、拓大紅陵との決勝戦を迎える事となった。
決勝戦も緊迫した投手戦となり、一進一退の攻防の中、成東が何とか1点をもぎ取り、逃げ切りの様相を呈してきた。
1点リードで迎えた9回裏、最後のバッターもツーストライクまで追い込んだ。
「あと一人」から「あと一球」へと応援の声が変わった。
異様なまでの興奮状態が球場全体を包んでいた。
押尾は、キャッチャー八角のサインをのぞく。
カーブのサインだった。
押尾は大きく頷いた。
押尾は渾身のカーブを投げ込んだ。
そしてバットは、大きく空を切った。
・・・一瞬、球場全体の時間が止まったかのようだった。
ほんの少しの間をおいて、球場全体が大歓声に包まれた。
波打つスタンド、あちこちで抱き合い、涙し、万歳の嵐が巻き起こっていた。
「悲運の成東」が学校創立90年、野球部創部88年目にして初の甲子園への切符を手にした瞬間であった。
続く閉会式でもドラマが待っていた。松戸健千葉県高野連会長から行木主将に優勝旗が渡されたとき、再び球場全体が大歓声に包まれた。
この松戸氏こそが、元・成東高校の監督で、長年甲子園への夢を見続けてきた人物であったのだ。
~九十九球史より一部引用~
成東は7月13日の試合で、西武台千葉に 1 - 5 で敗退となり令和最初の夏に終わりを告げた。
戦国千葉には、西暦末尾「9」年の大会は、公立校が初優勝するというジンクスがある。
1939年 千葉商(初)
1979年 市銚子(初)
1989年 成東(初)
1999年 柏陵(初)
2009年 八千代東(初)
※1919年、1929年、1949年、1959年、1969年は代表なし
果たして令和最初の夏、戦国千葉を制するのはどこになるのだろう?
以上です。
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