☆名将・木内幸男監督 逝く
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鶴丸 深志’
2020年11月28日 21:40 visibility1285
~ 常総学院時代の木内幸男監督(写真中央)~
妻が未明に外出している。知らないうちに新聞配達を始めていた。理由を問うとタンスを指す。質に入っていない着物は一枚だけであった。「野球ができるなら給料などは」と情熱のすべてを指導に傾けるうちに、茨城県立取手二高野球部を率いる木内監督の家計は危機的になっていたという。
月々の手当は当初、四千円だったそうだ。常陽新聞新社編『木内流子供の力の引き出し方』にある挿話だ。大胆で絶妙な選手起用と硬軟自在の作戦、勝負の読み…。奥さまは大変だったろうが、「木内マジック」と呼ばれることになる名采配が磨かれたのは、長い野球漬けの日々があってこそだろう。
木内さんが八十九歳で亡くなった。取手二を率いて「桑田・清原」のPL学園を、常総学院を率いて「ダルビッシュ投手」の東北を夏の甲子園決勝でくだした。劣勢の評判もはね返しての球史に残る見事な勝利は、茨城なまりの話しぶりや笑顔とともに忘れがたい。
茨城県内屈指の進学校・土浦一高(旧制・土浦中学)で主将を務めていた。自らの失策で敗れ、最後の夏を終えている。「母校に借りができた」と、受かった慶應義塾大学に行かず、教員ではない職業監督の道を歩んだ理由という。
セオリーにとらわれない采配は、「ごじゃっぺ」とも言われたそうだ。茨城弁で「めちゃくちゃ」の意味らしい。
生き方にも常識外れを感じてしまう指揮官には、褒め言葉に聞こえる。
高校球界にも悲しみが広がった。高知・明徳義塾の馬淵史郎監督は「昭和を代表する大監督でした。残念です」と惜しみ、東京・帝京高校の前田三夫監督は「勝負師だが人情味のある優しさもあった。残念。私の心の支えだった」と話した。
常総学院時代の教え子で、DeNAの2軍監督就任が決まっている仁志敏久氏は、球団を通じ「思い出は話せば尽きません。悲しさと寂しさでいっぱいです」とコメントした。入院前日に会った際に「うっすらと声を出して『頑張れ』と。喜んでいた」と振り返った。
島田直也監督(常総学院)「高校3年間、木内監督の下で野球ができたことが本当に思い出。秋季関東大会(準優勝で来春の選抜出場が有力)後に報告に行った時には「よくやった。偉い」と言われたことが本当にうれしくて…。面と向かって褒めるような方じゃなく厳しい方だったので30年かかってやっと褒めてもらえた」
金子誠・日本ハム野手総合コーチ「お目にかかるたびにいつも変わらぬ豪快な「木内節」を頂いていました。残念で言葉もありません。木内監督から頂いた、たくさんのぼやきや教えは私の野球観の原点です」
監督として甲子園には、春7回、夏15回出場、優勝は春1回、夏2回、歴代7位の通算40勝(19敗)を記録した。
~ 東京新聞 Tokyo Web より 引用~
~ 取手二高 ~
~ 常総学院 VS 土浦一高 ~
以上です。
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