☆センバツへの道 ~21世紀枠茨城県推薦校・下妻一高~

戦国時代、下妻の地は多賀谷氏が治めていた。

江戸時代に入ると、1606年(慶長11年)に徳川頼房が10万石で入封し下妻藩を立藩、1615年(元和元年)からは松平忠昌、その翌年からは松平定綱が入封、1619年(元和5年)に松平定綱が遠江掛川城に転封され幕府領となる。

その後、1712年(正徳2年)に美濃郡上八幡城主・井上正任の三男・正長が1万石で入封、改めて下妻藩を立藩した。そして翌年、多賀谷氏の下妻城の西方に陣屋を築いた。これが下妻陣屋である。

下妻陣屋があった南端に位置するのが下妻一高で、高校敷地の東北角地に、当時、御陣屋稲荷と呼ばれていた城山稲荷が残り、その境内に土塁の一部が現存している。

 

 

 

 

下妻一高は茨城県西部に位置する下妻市に所在し、1897年(明治30年)に茨城県尋常中学校(現水戸一)下妻分校として設立された歴史を有し、県西地区屈指の進学校である。

野球部は1902年(明治35年)に創部され、茨城県内では水戸一、土浦一、太田一、水海道一、水戸農に次いで、竜ヶ崎一と並ぶ伝統を有する。

1947年(昭和22年)から水海道一高との間で行われている定期戦は「常総野の早慶戦」と称されている。

夏の全国大会予選には、茨城県内では竜ヶ崎中(竜ヶ崎一)、土浦中(土浦一)、茨城商(水戸商)に次いで、1918年(大正7年)の第4回大会予選(関東大会)に初参加した。結果は、真岡中(真岡)に 7 - 5 で勝利し、予選初参加で初勝利を挙げた。続く準決勝は、竜ヶ崎中に 1 - 7 で敗退となった。

夏の予選通算成績は126勝95敗、最高成績は2度の準優勝である。

春夏通じて甲子園出場はないが、今秋の茨城県大会では30年ぶりの4強入りを果たした。

 

 

伝統ある下妻一高の21世紀枠での甲子園出場に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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