☆創部120年を超える高校野球部 夏の予選観戦記 ~成東高校~
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鶴丸 深志’
2024年07月14日 19:00 visibility1085
(こちら成田市の大谷津運動公園野球です。写真の左後方に見えますのが成田山新勝寺です。皆様のご多幸をお祈り申し上げます。)
「3番ライト押尾君」。このアナウンスが場内に流れた瞬間、ある記憶が蘇った。
1989年7月27日、元号が平成に変わった夏の千葉大会決勝は、拓大紅陵と成東の対戦となった。この年の成東は、大会屈指の大型右腕・押尾健一投手(元ヤクルト)を擁していた。
準々決勝では延長13回の末、2 - 1 で銚子商を相手に劇的なサヨナラ勝利を収めた。
続く準決勝では、習志野に 6 - 2 で勝利し、拓大紅陵との決勝を迎えることとなった。
決勝も緊迫した投手戦となり、一進一退の攻防の中、成東が何とか1点をもぎ取り、逃げ切りの様相を呈してきた。
1点差で迎えた9回裏、最後のバッターもツーストライクまで追い込んだ。
「あと一人」から「あと一球」へと応援の声が変わった。
押尾はキャッチャー八角のサインをのぞく。
カーブのサインだった。
押尾は大きくうなずいた。
押尾は渾身のカーブを投げ込んだ。
そしてバットは、大きく空を切った。
・・・一瞬、球場全体の時間が止まったかのようだった。
ほんの少しの間をおいて、球場全体が大歓声に包まれた。
波打つスタンド、あちこちで抱き合い、涙し、万歳の嵐が巻き起こっていた。
成東が創部88年目にして、悲願の甲子園初切符を手にした瞬間であった。
さらにドラマには続きがあった。
昭和40年代、千葉の高校野球はレベルが高く、夏の全国大会で優勝2回、準優勝1回、8強2回と黄金期を迎えていた。その時代、成東高校野球部を率いていたのが、松戸健監督である。
1962年(昭和37年)、松戸氏は成東高校野球部監督に就任。14年間の監督生活で、全国レベルの銚子商や習志野が厚い壁となり、成東は甲子園に一度も出場することができなかった。
成東が甲子園初出場を決めた時の千葉県高野連会長が、なんと松戸氏その人だった。甲子園出場を決めた成東ナインに対して、優勝旗を授与する松戸会長。監督時代の無念を知っている千葉の高校野球ファンは、スタンドから大きな拍手を送り、感動的な閉会式になった。
千葉県立成東高校は千葉県山武市に所在し、1900年(明治33年)に千葉県佐倉中学校成東分校として創立された歴史を有する。主なOBは、元阪神、オリックスの監督を務めた中村勝広氏、元中日の鈴木孝政氏などである。
野球部は1902年(明治35年)に創部され、千葉県内では佐倉、県千葉、成田、銚子商、木更津、安房、茂原樟陽に次いで、佐原、長生と並ぶ歴史を有する。
夏の全国大会予選には、千葉県内では銚子商、千葉師範、県千葉、成田に次いで、1922年(大正11年)第8回大会予選(関東大会)に初参加した。結果は、成田中(成田)に 16 - 5 で勝利し、予選初勝利を挙げた。
夏の予選通算成績は161勝92敗、優勝1回、準優勝4回である。
試合の方は、夏2回の甲子園出場を誇り、元阪神の和田豊氏の母校である我孫子高校を相手に、2 - 9 (8回コールド)で敗退となり、梅雨明け前に成東の短い夏が終わった。
とはいえ、スタンドには大勢の成東ファンが詰めかけ、選手の一挙手一投足に大きな声援と拍手を送り続けていた。
成東は令和になっても多くのファンに愛されるチームであった。
野球部創部122年、伝統ある成東高校の活躍に期待したい。
以上です。
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