#239 松田直樹だけじゃない、プロサッカー選手の突然死②

 

松田直樹氏だけではなく、同様の事例は下記のように多く起きています。

改めて2人の事例も含めて紹介してみます。

 

 

 

2003年6月26日、マイク・ヴィヴィアン・フォエは、かつて在籍していたオリンピック・リヨンのホームスタジアムで行われた「FIFAコンフェデレーションズカップ2003準決勝カメルーン対コロンビア戦」の試合後半27分、心臓発作で倒れ、迅速な処置も空しくそのままピッチ上で28歳の若さで永眠した。

 

 






 

 

カメルーン代表は準決勝を 1-0 で勝利し、決勝戦のフランス戦では試合前のウォームアップ時にフォエの背番号である「17」をつけたユニフォームを着用し、対戦相手であるフランス代表と共にセンターサークル内で円を作り、黙祷した(当時のフランス代表監督ジャック・サンティニや、代表選手のグレゴリー・クーペ、シドニー・ゴヴ、スティーブ・マルレはフォエがオリンピック・リヨンに在籍していた際の、監督・チームメートでもあった)。

 

 






 

彼の最終所属クラブとなったマンチェスター・シティは彼の死を悼んで彼の背番号23を永久欠番とし、ホームスタジアムにはフォエのメモリアルが作られた。またRCランスは、ホームスタジアム近くの通りの名を彼にちなんだものに改名している。

 

 

 

2004年1月25日、ベンフィカに所属するフェヘール・ミクローシュはヴィトーリアSCとのリーグ戦、後半15分から試合に出場し、試合終了間際にフェルナンド・アグイアールが挙げた決勝点をアシストしたが、その際、遅延行為によるイエローカードを受けた。

 

 

イエローカードを受けた直後、仲間の得点を静かに笑顔で喜んでいたが唐突に前のめりに身を屈め、そして背中から後ろへピッチ上、仰向けに倒れた。すぐに仲間らが駆け寄り、体を楽なように横向けに寝かせるなどし、心肺蘇生法が施された後、フェヘールはピッチ内に到着した救急車によって病院へと搬送されたが、同日深夜死亡が確認された。肥大型心筋症が原因による心停止であった。

 

 






 

 

フェヘールを記念して、ベンフィカは彼が用いていた同クラブの背番号「29」を永久欠番とした。

 

 

また祖国ハンガリーに埋葬のため搬送されるまで、彼の遺体はベンフィカのホームスタジアムであるエスタディオ・ダ・ルスに安置され、FCポルトのサッカーディレクターであったレイナルド・テレス、そしてジョゼ・モウリーニョを含む多くの人々が弔問に訪れた。

 

 

同年5月、全選手を含むベンフィカの代表団はハンガリーに渡り、フェヘールの両親に2004-05年度リーガ・サグレスチャンピオンのメダルを手渡した。リスボン市内にて2010 FIFAワールドカップ欧州地区予選、ポルトガル対ハンガリー戦が行われる前日であった2009年10月9日、ハンガリー代表関係者はエスタディオ・ダ・ルスを訪れ、フェヘールの胸像に花輪を捧げた。

 

 






 

 

 

2007年8月25日、アントニオ・プエルタはサンチェス・ピスフアンで行われた2007-2008シーズン開幕戦のヘタフェCF戦、前半35分にピッチで突然意識を失うアクシデントに見舞われた。

 

 






 

 

その場で行われた治療で一時意識を取り戻したプエルタは、立ち上がって自分の足でロッカールームへ向かったが、そこで再び倒れ、セビリア市内の病院に搬送された。ICUで治療を受けたものの、意識を取り戻してから再び心不全を起こすなどして幾度か心肺機能停止状態となり、これによる脳へのダメージなども考えられるなど極めて予断を許さない状況となっていた。

 

 

セビージャFCと同じアンダルシア州セビリアに本拠を置き、普段は激しく対立する事からリーグ有数のライバル関係とされるベティスにもこの波紋は広がっていた。8月26日、隣県ウエルバで行われたレクレアティーボ戦では4000人ほどのファンがプエルタの回復を願う人文字を作り出し、試合後に選手達はプエルタの入院先へ駆け付けていた。またベティス首脳陣も公にプエルタへの応援の態度を表した。

 

 






 

 

ライバル関係さえ超えてスペイン中が回復を願ったものの、スペイン時間8月28日14時過ぎに懸命の治療の甲斐なく22歳の若さで逝去した。医師はその死の原因が、特発性拡張型心筋症の一種で「不整脈源性右室心筋症(不整脈源性右室異形成)」と呼ばれる遺伝や突然変異等によって起こる心臓疾患であったことを明らかにしている。

 

 

事実、彼は以前も練習中と試合中の二度にわたって気を失ったことがあった。しかし、都度行われていた検査では異常が見られず経過観察となっていた。

 

 

遺体は28日深夜にサンチェス・ピスフアンに運ばれ安置されたが、深夜にも関わらず、5000人ものセビージャとベティスのファンが彼を迎えた。

 

 






 

 

翌29日は約2万人もの人々が弔問に詰めかけている。また、ライバルチームであるベティスを始めとしたリーガエスパニョーラに所属する各クラブの公式HP、スペインの主要スポーツ紙のHPでも喪章を表示し、哀悼の記事が掲載された。

 

 

セビージャの本拠地であるサンチェス・ピスフアンでの試合では、現在でも彼の背番号「16」になぞらえた前半16分に必ず、プエルタの応援歌が歌われている。

 

 

2009年8月8日、遠征先のイタリアのフィレンツェのホテルにて、急性心筋梗塞により死亡しているハルケが見つかった。恋人と電話をしていたところ急に話が途切れ、それを不審に思った恋人がクラブ関係者に連絡し、発見に至った。

 

 






 

 

チームの中心選手であったハルケの死が、チームやサポーターに与えた衝撃は計り知れないものがあり、訃報を聞いた多くのファンやサポーターがホームスタジアムに詰め掛け、彼の死を惜しんだ。

 

 






 

 

彼の死後、RCDエスパニョールの本拠地であるエスタディ・コルネリャ=エル・プラットスタジアムで行われる試合では、ハルケが生前に着けていた背番号21に因み、試合開始から21分にサポーターによる彼を追悼するための拍手が沸き起こる。

 

 

翌年迎えたワールドカップ南アフリカ大会の決勝戦で、延長後半に値千金の決勝ゴールを決めたスペイン代表のアンドレス・イニエスタが歓喜のままにユニフォームを脱ぐと、アンダーシャツに「DANI JARQUE SIEMPRE CON NOSOTROS(ダニ・ハルケ、僕達はいつも共にある)」という手書きのメッセージが書き込まれていた。

 

 







 

 

 

2011年8月4日。サッカー元日本代表で、日本フットボールリーグ松本山雅FCに所属する松田直樹選手(34)が4日午後1時06分、長野県松本市内の病院で死去した。 関係者によると、0時半ごろには脈拍が弱くなり、息を引きとる際には家族が看取ったという。

 

 






 

 

松田選手は2日午前9時半ごろ、松本市のグラウンドで練習中に倒れ、見学していた女性看護師が心臓マッサージを施したが、病院に搬送された時は既に心肺停止状態だった。その後、微弱ながら心臓の鼓動が戻り、人工心肺装置で血流を維持したが意識は戻らなかった。

 






 

 

彼らの死が無駄にならないことを祈ります。

次回は、盛り上がりを見せている『ロンドンオリンピック』での奇跡の聖火ランナーについて取り上げてみたいと思います。

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