”春の甲子園”は全国大会ではない?
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仲本
2013年12月01日 14:20 visibility228
シーズンオフということで図書館の書庫から古い本を出してもらった。
佐伯達夫氏、明治26(1893)年生まれ。中等学校野球の全国大会の初期から大会委員・審判委員として参画し、昭和42(1967)年から日本高野連の会長に就任し、在職のまま昭和55(1980)年に死去。高校球界の大立者を一人選べと言えばこの人しかいない、という人物だ。平易な言葉で書かれているにもかかわらずなぜかすんなりと頭に入ってこないが(苦笑)、とにかく貴重な資料であることは間違いない。いちいちつっこんでいるときりがないのでエピソードを一つだけ書いてみる。
戦前から隆盛を極めていた中等学校野球は太平洋戦争で中止を余儀なくされた。1945(昭和20)年8月15日、佐伯氏は終戦の詔勅をラジオで聞くと翌日の16日には早速朝日新聞大阪本社を訪れ、大会運営で懇意だった元・運動部長に面会し、中等学校野球の再開を熱心に説いたという。ちなみにこのとき佐伯氏は50歳を越え、本業はというと鉄鋼商社の関連会社の役員クラスだった。連盟の仕事でお金稼いでたんじゃないのね(´・ω・`)。
というよりもそもそも「高野連」にあたるものはまだなかった。中等学校野球はとにかく朝日・毎日両新聞社の社をあげての尽力によって全国大会が運営されていたため、ほかの競技のような競技団体が存在しなかったのだそうだ。戦前の「幻の甲子園」の一件もあり、再開に向けては文部省に仁義を切っておかねばなるまい。連合国軍総司令部(GHQ)にも、当然お伺いを立てなければいけないだろう。文部省は「戦前からの経緯もあり、新聞社主催で差し支えない。しかしこの際なので競技団体を作り、実務運営面は新聞社で行うにしても表面上は競技団体との共催という形にするほうが、ことが円滑に進むのではないか」といかにも役人風な回答をした。それならば、と急ぎ足で結成されたのが日本高野連の前身にあたる連盟だ。
文部省とすれば、GHQは「新聞社単独主催の全国大会?そんなの本国では聞いたことないよ」、と考えると思ったのだろう。実際そうだった。朝日は文部省関係とも連携をとって何とか開催にこぎつけたが、後れをとった格好になった毎日は苦労した。そもそも全国大会は年1回でよいではないか、というわけだ。新生の連盟としてもせっかくここまで準備したのだから今回だけは、とがんばって昭和22年の春の大会の開催を主張した。通訳の女性は交渉にあたったGHQの幹部にこう言った。「今ここであなたが大会を中止にしたら、日本人に一生恨まれますよ」。今回だけ、という条件で認められた。
翌年の春も一から交渉のやり直しとなった。どうせまた全国大会は年1回、いう議論の蒸し返しになるに決まっている。一計を案じた。「大会はシーズン開幕を告げる、近畿中心の野球祭り」だというのだ。寒冷地のハンディがある北海道・東北は出場校から除く(つまり、全国大会ではない)、ということで切り抜ける。大会の名称も戦前は「全国選抜中等学校野球大会」といったが、「全国」を外した。当時は回数も戦前からの通算は認められなかった。その後、大会回数は戦前からの通算に戻ったが、春の甲子園大会は今も「選抜高校野球大会」。「全国」の名を冠していないのはそのためだ。
(参考:『佐伯達夫自伝』佐伯達夫/ベースボール・マガジン社/1980)
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