クラブの転機木村代表


07年の地域決勝で優勝してJFL昇格を果たした岡山は、それから1年でJ2に到達した

 ファジアーノ岡山の取材で、私が初めてこの地を訪れたのは、今から6年前の06年1月のことであった。当時の運営組織は「岡山ヒューマンスポーツクラブ」というNPO法人で、まだ株式会社化されてはいなかった。オフィスは今と同じ、岡山商工会議所のビルにあったが、事務所は今よりもうんと狭く、古ぼけたソファと、いくつかのサッカー用具、そしてなぜかファジ丸のイラストが飾ってあるだけであった。

 ファジアーノ岡山の前身は、岡山県リーグ1部に所属していたRFK(リバーフリーキッカーズ)といい、川崎製鉄水島製鉄所のサッカー部OBによる純然たるアマチュアチームであった。ちなみに川鉄水島サッカー部の本体は、95年に本拠地を神戸に移し、ヴィッセル神戸となって今に至っている。実はその前年の94年、本拠地移転に際して「岡山でJを目指す意思はあるか」という打診が県協会に対してあったとされる。だが、有力スポンサーが見つからなかったことに加え、県内の盛り上がりに欠けたこともあり、この話は立ち消えとなってしまった。

 それからおよそ10年が経過し、「岡山からJへ!」という合言葉の下、RFKがファジアーノ岡山として改組されたのが03年。翌04年には県1部で優勝し、中国サッカーリーグへの昇格を果たすと、05年にはJFLへの登竜門である全国地域リーグ決勝大会(地域決勝)に初めて出場。この年に昇格を決めたロッソ(現ロアッソ)熊本と接戦を演じるも、1次リーグ敗退となってしまう。ピッチレベルでは選手もスタッフも精いっぱいの頑張りを見せていたものの、当時のクラブをめぐる状況は「市民の知名度が低い」「クラブの情報開示が遅い」「Jへのビジョンが見えない」といった問題が山積しており、数少ないサポーターは不安と不満を募らせていた。

 そんなクラブに変化が訪れたのは、それから半年後の06年7月にクラブの株式会社化が実現してからである。地元出身で、ゴールドマン・サックス証券で執行役員を務めた木村正明(当時38歳)が代表取締役に就任。前職で数百億もの額を動かしていた男は、好奇に満ちた周囲の視線をよそに、数百万のために頭を下げ続ける。その熱意はすぐに実り、クラブの年間予算は右肩上がりを続けた。代表就任の06年は1200万、07年に9000万、そして08年は「2億2000万でトントン」(本人談)。その間、07年に地域リーグ所属ながらJリーグ準加盟申請が認められ、同年の地域決勝に見事優勝してJFL昇格。さらに翌08年には初めてのJFLを4位でフィニッシュし、岡山は1シーズンでJ2昇格を果たすこととなった。

■「早すぎた昇格」に対するクラブ側の地道な対応
毎年、平均入場者数を着実に伸ばしている岡山。この日は台風にもかかわらず、7155人の観客が詰めかけた【宇都宮徹壱】

 J2昇格が決まった直後、木村代表にインタビューした際に、彼はJFLを1シーズンでクリアしたことについて「早すぎた」と言わんばかりのコメントを残している。
「理想を言えば、勝ったり負けたりして、最後は(昇格に)届かなかった。じゃあ何が足りなかったのか――。もちろん(昇格を逃せば)つらいだろうけど、クラブの将来のためには、そのほうがいいと思っていました」

 決してあまのじゃくで言っているのではない。昇格のスピードに、クラブの組織が、そして岡山のサッカー熱が、本当についていけるのか? そのことを木村は、ほかの誰よりも鋭敏に察知し、憂えていた。今回の取材で、木村に代わって対応してくれた常務取締役統括本部長の小川雅洋も、昇格直前のクラブの状況をこのように振り返る。

「率直に言えば、2年(JFL)は、かかると思っていました。ところが開幕ダッシュに成功して、10試合負けなしの8勝2分け。そこで前倒しで、Jに上がってからのスキームの見直しをスタートさせたんです。ただ、幸いなことにウチの場合、すでに地域リーグ時代に準加盟になっていたのが大きかったですね」

 J2昇格1年目の09年は、大型補強を行うことなくJFL時代のメンバー中心で戦ったものの、結果は最下位。川原周剛、野本安啓といった、地域リーグ時代からチームを引っ張ってきた面々も奮闘したが、他クラブとの戦力差は明らかであった。予算規模や将来性も考慮して、選手獲得は大学生が中心となったため、チームに華が欠ける印象も否めない。にもかかわらず、ホームゲームの平均入場者数は、6162人(09年)、7161人(10年)、7258人(11年)と増え続け、現時点で8000人を超えている。その理由について、小川はこのように説明してくれた。

「昇格1年目は、Jで戦う準備ができていなかった。そのことはサポーターも感じていました。それよりも、Jを戦うクラブが身近にあることの有難みのほうが大きかったかもしれないですね。(入場者数の伸びは)すべての積み上げの結果だと思います。今でもホームゲームがある週には、1万枚のビラを、岡山駅、県庁と市庁舎、そして岡山大学に配り続けています。ビラまきは地域リーグ時代から続けていて、社員は全員参加。ボランティアの方々にも支えられながら続けています」

 このように、派手さには欠けるものの、岡山はクラブ関係者の地道な努力とサポーターの献身にも支えられ、この4シーズンは堅実に順位を上げながら集客を伸ばしてきた。やがてサポーター側から、かねてよりクラブを悩ませていた難題を解決しようとする機運が高まってくる。それは、練習グラウンドの確保であった。

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