
プレミアリーグと日本人選手の歴史。香川、宮市、李は新たな“成功者”となるか?
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舞
2012年08月25日 01:50 visibility109
3人の“サムライ”は自信を持ってピッチに立つ。日本中のファンは大きな期待を抱いている。今度こそ日本人選手は成功を収めてくれる。彼らは「プレミアリーグが夢の舞台ではない」とピッチ上で証明してくれるはずだ。
Text by Michael SMITH, Translation by Footmedia, Photo by Getty Images
■プレミアリーグの“扉”を開いた稲本
日本人選手とプレミアリーグの関係を考えた時、思い出すシーンがある。2003年10月25日、場所はオールド・トラッフォード。マンチェスター・ユナイテッドの本拠地に乗り込んだフルアムが1点リードで迎えた79分。左サイドの浅い位置でボールを受けたステード・マルブランクが右足でゴール前にロビングを入れると、髪の毛を金色に染め上げた稲本潤一がタイミング良くゴール前に進入。稲本はワンバウンドしたボールを落ち着いて左足にミートさせた。スコアは3│1。フルアムが、ユナイテッドの本拠地で約40年ぶりに勝利した試合だった。プレミアリーグの歴史に、日本人フットボールプレーヤーが初めて名前を刻んだ瞬間である。
それからもうすぐ10年が経とうかという今年の夏、かつて稲本がゴールネットを揺らしたオールド・トラッフォードで新たなスタートを切る日本人が現れた。ドルトムントからユナイテッドへと移籍を果たした香川真司だ。ブンデスリーガを席巻した小柄なテクニシャンは、プレミアリーグに挑戦した日本人プレーヤーの中で、唯一の成功者だった稲本を超えるべく、この地にやってきた。
プレミアリーグに初めて日本人選手がやってきたのは01年。その年に行われたコンフェデレーションズカップで、稲本のプレーがアーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督の目に留まった。当時、すでにローマで活躍していた中田英寿の存在により、イタリアでは日本人プレーヤーの実力が認められていた。だが、イングランドで最初に日本人選手の可能性を試したのは、かつてJリーグで監督を務め、1996年にアーセナルへと仕事の場を移したヴェンゲルだった。
ガンバ大阪から海を渡った稲本はイングランドで5年の歳月を過ごし、アーセナル、フルアム、カーディフ、ウェスト・ブロムウィッチの4チームで公式戦110試合出場10得点、プレミアリーグに限れば66試合出場4得点という記録を残した。これらの記録は今なお、日本人プレーヤーとしてベストの数字である。
アーセナルで過ごした1年目はリーグ戦には出場できず、チャンスはカップ戦だけだった。だが、今になって振り返ると、当時のアーセナルにはティエリ・アンリ、デニス・ベルカンプ、フレドリック・リュングベリ、ロベール・ピレス、パトリック・ヴィエラなど、そうそうたるメンバーがそろっていた。黄金期のビッグクラブで、無名の日本人が試合に出るのは不可能だった。だが、そうしたビッグネームたちとの練習の日々は無駄ではなかった。稲本は02年の日韓ワールドカップ(以下W杯)で2ゴールを挙げる活躍を見せると、その夏に移籍したフルアムでついに実力を発揮したのだ。
青年監督クリス・コールマンの信頼を勝ち取った稲本は生き生きしていた。冒頭に書いたユナイテッド戦の得点は、クラブのゴール・オブ・ザ・シーズンにも選ばれた。古巣アーセナルとの対戦でも堂々たるプレーを見せ、「日本人選手=フィジカルが弱い」という先入観が当てはまらないことを証明した。結局、フルアムとの契約延長を目前にして足の骨折という重傷に見舞われ、長期の在籍はかなわなかったが、捨てる神あれば拾う神あり。フルアムでのプレーが認められ、ウェスト・ブロムウィッチから声が掛かり、プレミアリーグでの挑戦はその後も続くことになった。
日本人らしくパス、トラップといった基本技術のレベルが高く、思い切りの良い攻撃参加とタックルも持ち合わせていた稲本は、攻守に貢献できるイングランド向きのMFだった。何より、彼にはピッチ上で90分間ファイトできる闘争心があった。だからこそ、複数のチームからオファーを受け、5年もプレーを続けられたのだろう。
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