セカンドキャリアで政治の道を選んだサッカー選手たち 提供:ワールドサッカーキング
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2014年12月03日 08:53 visibility196
第47回衆議院選挙が2日に公示され、12日間にわたる選挙戦に突入した。
40歳手前にして現役キャリアを終えるサッカー選手がほとんどだが、海外を中心に引退後、政治家へ転身する選手も多々存在する。新しいキャリアとして政治への道を選んだ主な選手たちを紹介したい。
■ジョージ・ウェア(リベリア/元ミラン、パリSGなど)
モナコやパリSG、ミランなどで活躍した“リベリアの怪人”。1995年にはアフリカ人として初のバロンドール(現FIFAバロンドール)を受賞した。
2003年に現役を引退したウェアは、内戦に苦しむ母国リベリアを助ける活動を行っていく。自身の名を冠した「ジョージ・ウェア基金」の設立やユニセフの親善大使を務めるなどした。ウェアは、第2次リベリア内戦終結後の2005年大統領選に立候補。抜群の知名度やこれまでの活動などにより有力候補となっていたが、2011年ノーベル平和賞受賞者であるエレン・ジョンソン・サーリーフに敗れ、落選。ウェア側は投票結果の改ざんがあったと主張するなど、混乱も見られた。
当時の選挙戦で対立候補側から教育面の欠如を指摘されたウェアは留学のために渡米。2009年に帰国すると、その後も政治活動を行い、2011年には副大統領候補として選挙戦を戦った。
■ロマーリオ(ブラジル/元バルセロナ、PSVなど)
1988年からプレーしたPSVでは所属5シーズンで167試合出場165得点を記録。1993年から在籍したバルセロナではヨハン・クライフ氏率いる“ドリームチーム”の一員としてプレーするなどした。
キャリア通算1000ゴールを達成し、2008年に現役引退を表明(その後2009年にリオ州選手権2部でプレー)。2010年10月にブラジル下院議員選挙に出馬し、当選すると2014年のブラジル・ワールドカップに関する汚職やマネー・ロンダリングを激しく非難するなどした。2014年には上院選挙に出馬し、リオ州で最多得票を獲得して当選している。
■カハ・カラーゼ(グルジア/元ミラン、ディナモ・キエフなど)
ディナモ・キエフで活躍したカラーゼは2001年冬にミランへ移籍。チャンピオンズリーグを2度制するなどし、2011-12シーズン終了後にジェノアで現役を引退した。
カラーゼは引退した同年、会選挙に当選し、政治家となる。2001年に弟をグルジア国内で誘拐され、2006年に死亡が確認されたという経験持つカラーゼは、当時の政府や警察に不満を抱いたことも国政への参加を考えるようになった一因と言われている。現役引退時には、「息子が自由で民主主義なグルジアで育ってほしい」とコメントしている。当選後はエネルギー大臣を務めるが、自身の会社が水力発電会社の株式を取得しているため、疑念を持たれるなどした。
■アンドリー・シェフチェンコ(ウクライナ/元ミラン、ディナモ・キエフなど)
カラーゼと同じくディナモ・キエフで一躍名をとどろかせたシェフチェンコは、ミラン加入後にさらに名声を高めていく。スクデットを獲得した2004年にはバロンドールに輝いている。
2012年にプロサッカー選手としてのキャリアを終えたシェフチェンコは政治家への転身を明言。旧ウクライナ社会民主党の「ウクライナよ、前へ!」に加わり、比例名簿2番目で同年10月の選挙に臨んだが党の支持率は低迷し、議席を獲得できなかった。その後、ゴルファーへ転身している。
■ペレ、ジーコ(ブラジル)
現役時代に時代を象徴する選手として活躍した両名は引退後にブラジルでスポーツ大臣を務めた。
先にスポーツ担当大臣となったのは、1990年にブラジル初の大統領選で当選したフェルナンド・コロール・デ・メロの下で同職に就いたジーコ。約1年間務めたが、住友金属工業(現鹿島アントラーズ)からのオファーを受けて退任した。
ペレ氏は1995年にフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下、同国初の黒人閣僚となる。公共事業やスポーツの法整備を進め、入閣以前から関係の悪かった当時のFIFA会長であるジョアン・アベランジェ氏やブラジルサッカー連盟のリカルド・テイシェイラ会長との関係性をさらに悪化させた。(後に和解)
■ハカン・シュキル(トルコ/元ガラタサライ、インテルなど)
クラブではガラタサライ、さらにはトルコ代表のエースFWとして2002年の日韓ワールドカップでは母国の3位躍進に貢献し、2008年に引退。2011年に出馬したハカン・シュキュルは与党の公正発展党に在籍して当選したが、2013年12月に離党している。
■主な日本人
☆釜本邦茂(元日本代表、ヤンマー)
1995年、参議院議員通常選挙に立候補。比例区で当選し、1期務める。2001年の参院選で落選し、政界を引退。
☆田口禎則(元日本代表、浦和レッズなど)
1999年、浦和市議会議員選挙に出馬し、トップ当選。2003年に埼玉県議会議員となる。2009年にはさいたま市長選挙に立候補を検討も断念。
☆都築龍太(元日本代表、浦和レッズなど)
2011年に埼玉県議会議員選挙に立候補も落選。
40歳手前にして現役キャリアを終えるサッカー選手がほとんどだが、海外を中心に引退後、政治家へ転身する選手も多々存在する。新しいキャリアとして政治への道を選んだ主な選手たちを紹介したい。
■ジョージ・ウェア(リベリア/元ミラン、パリSGなど)
モナコやパリSG、ミランなどで活躍した“リベリアの怪人”。1995年にはアフリカ人として初のバロンドール(現FIFAバロンドール)を受賞した。
2003年に現役を引退したウェアは、内戦に苦しむ母国リベリアを助ける活動を行っていく。自身の名を冠した「ジョージ・ウェア基金」の設立やユニセフの親善大使を務めるなどした。ウェアは、第2次リベリア内戦終結後の2005年大統領選に立候補。抜群の知名度やこれまでの活動などにより有力候補となっていたが、2011年ノーベル平和賞受賞者であるエレン・ジョンソン・サーリーフに敗れ、落選。ウェア側は投票結果の改ざんがあったと主張するなど、混乱も見られた。
当時の選挙戦で対立候補側から教育面の欠如を指摘されたウェアは留学のために渡米。2009年に帰国すると、その後も政治活動を行い、2011年には副大統領候補として選挙戦を戦った。
■ロマーリオ(ブラジル/元バルセロナ、PSVなど)
1988年からプレーしたPSVでは所属5シーズンで167試合出場165得点を記録。1993年から在籍したバルセロナではヨハン・クライフ氏率いる“ドリームチーム”の一員としてプレーするなどした。
キャリア通算1000ゴールを達成し、2008年に現役引退を表明(その後2009年にリオ州選手権2部でプレー)。2010年10月にブラジル下院議員選挙に出馬し、当選すると2014年のブラジル・ワールドカップに関する汚職やマネー・ロンダリングを激しく非難するなどした。2014年には上院選挙に出馬し、リオ州で最多得票を獲得して当選している。
■カハ・カラーゼ(グルジア/元ミラン、ディナモ・キエフなど)
ディナモ・キエフで活躍したカラーゼは2001年冬にミランへ移籍。チャンピオンズリーグを2度制するなどし、2011-12シーズン終了後にジェノアで現役を引退した。
カラーゼは引退した同年、会選挙に当選し、政治家となる。2001年に弟をグルジア国内で誘拐され、2006年に死亡が確認されたという経験持つカラーゼは、当時の政府や警察に不満を抱いたことも国政への参加を考えるようになった一因と言われている。現役引退時には、「息子が自由で民主主義なグルジアで育ってほしい」とコメントしている。当選後はエネルギー大臣を務めるが、自身の会社が水力発電会社の株式を取得しているため、疑念を持たれるなどした。
■アンドリー・シェフチェンコ(ウクライナ/元ミラン、ディナモ・キエフなど)
カラーゼと同じくディナモ・キエフで一躍名をとどろかせたシェフチェンコは、ミラン加入後にさらに名声を高めていく。スクデットを獲得した2004年にはバロンドールに輝いている。
2012年にプロサッカー選手としてのキャリアを終えたシェフチェンコは政治家への転身を明言。旧ウクライナ社会民主党の「ウクライナよ、前へ!」に加わり、比例名簿2番目で同年10月の選挙に臨んだが党の支持率は低迷し、議席を獲得できなかった。その後、ゴルファーへ転身している。
■ペレ、ジーコ(ブラジル)
現役時代に時代を象徴する選手として活躍した両名は引退後にブラジルでスポーツ大臣を務めた。
先にスポーツ担当大臣となったのは、1990年にブラジル初の大統領選で当選したフェルナンド・コロール・デ・メロの下で同職に就いたジーコ。約1年間務めたが、住友金属工業(現鹿島アントラーズ)からのオファーを受けて退任した。
ペレ氏は1995年にフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下、同国初の黒人閣僚となる。公共事業やスポーツの法整備を進め、入閣以前から関係の悪かった当時のFIFA会長であるジョアン・アベランジェ氏やブラジルサッカー連盟のリカルド・テイシェイラ会長との関係性をさらに悪化させた。(後に和解)
■ハカン・シュキル(トルコ/元ガラタサライ、インテルなど)
クラブではガラタサライ、さらにはトルコ代表のエースFWとして2002年の日韓ワールドカップでは母国の3位躍進に貢献し、2008年に引退。2011年に出馬したハカン・シュキュルは与党の公正発展党に在籍して当選したが、2013年12月に離党している。
■主な日本人
☆釜本邦茂(元日本代表、ヤンマー)
1995年、参議院議員通常選挙に立候補。比例区で当選し、1期務める。2001年の参院選で落選し、政界を引退。
☆田口禎則(元日本代表、浦和レッズなど)
1999年、浦和市議会議員選挙に出馬し、トップ当選。2003年に埼玉県議会議員となる。2009年にはさいたま市長選挙に立候補を検討も断念。
☆都築龍太(元日本代表、浦和レッズなど)
2011年に埼玉県議会議員選挙に立候補も落選。
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