日本代表はただのサッカータレント
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viva
2014年06月28日 06:51 visibility4893
日本代表を論ずる当たって、最初に言わなくてはいけないことは、ザッケローニに裏切られたということである。正直、こんな男だとは思わなかった。4年前に来日したときのザッケローニは、苦労人であり、もっと知的で、さすがに協会がオシムの次として抜擢した指導者だと納得させられる有能な紳士だった。トルシエ、オシムと、協会が欧州から引っ張ってきた指導者にこれまで間違いはなく、私は協会 - 実質は川渕三部の判断だと思われるが - の慧眼を信頼していた。ジーコの失敗は、言わばご愛敬のようなもので、Jリーグの育成と発展に貢献してくれたジーコへの恩返しが動機と目的であり、すなわち日本らしい「情」の選択であって、FIFAへの「宣伝」の意味と効果の上でも悪くなく、不当視されるべきものではないだろう。4年前のザッケローニは、明らかにトルシエ、オシムの延長上の「確かな人物」で、さすがに協会だと溜飲を下げる満点の人事だった。言葉に重みがあり、采配も華麗で、実戦でしっかり結果を出してくれた。ザッケローニは途中で変節した。そのことを察知したのは、昨年のコンフェデ杯前の、本田圭佑による「個の力」の舌禍事件があったときである。あれは野心剥き出しのクーデターだった。私はてっきり、英明で果断なザッケローニが、規律を乱した本田圭佑を粛清するものとばかり思っていた。そうしなければチームは保たない。
ところが、不意打ちの佞悪な暴言でクーデターを起こし、チームを独裁支配する権力を握った本田圭佑を、ザッケローニは窘めることも排除することもなく、逆に偏重して寵愛し、日本代表を本田圭佑主導のチームに完全に染め上げていく。それは愚行だった。チームはバランスを失い、コンフェデ杯は散々な結果に終わる。チームを束ねる司令塔だった長谷部誠は、地位と立場を奪われ、自信喪失して心身の健全な安定を綻ばせ、ドイツで試合中に大怪我をする羽目になる。本田圭佑のビッグマウスで出陣し、惨敗を重ねて終わるというのは、コンフェデ杯もW杯も全く同じパターンだ。本田圭佑主導のチームにしたら勝てない。そのことは、恥を曝して得たコンフェデ杯の苦い教訓であり、誰でも分かるマネジメントの道理だった。だから、W杯本番で勝とうとすれば、ザッケローニは、僭主の本田圭佑を切らなくてはいけなかったのである。コンフェデ杯後の1年間で、チームのコンセプトと戦略を改変しなくてはいけなかった。敗因は本田圭佑にある。日本代表の個々は、このチームの弱点をよく知っていて、「攻撃的なサッカー」「自分たちのサッカー」が実は機能しないことをよく知っていた。虚構だと知っていた。そこに傾注すれば、コンフェデ杯の二の舞になる。だから、初戦のコートジボワール戦で、彼らは精神的重圧のために足が動かなくなった。「攻撃的なサッカー」「自分たちのサッカー」の絵に、本心からコミットしておらず、疑心暗鬼だから、リスクを取る大胆で機敏な動きに出られず、小さく縮こまって固まってしまったのである。
「攻撃的なサッカー」「自分たちのサッカー」とは、ひたすら本田圭祐にボールを集め、本田圭佑が起点となってパスを出し、本田圭佑と香川真司のパスワークで敵ゴール前に切れ込むパターンだ。それだけが日本代表の唯一絶対の戦法となり、マスコミを通じて金科玉条化され、理想のイデオロギーとなってチームを縛った。「自分たちのサッカーをピッチで表現すること」が義務化され、敵に応じた臨機応変な戦術は一切許容されない硬直的な態勢となった。自由がなくなった。日本代表の個々は、簡単に言えば本田圭佑の奴隷となり、手足となったのだ。自ら積極的にそうなることが、日本代表を勝利に導く自己の貢献だと言い聞かせ、自らマインドコントロールしながらも疑心暗鬼を隠せなかったわけだ。尤も、本田圭佑が3年前のようなベストの状態で、キープ力も突破力も回復させていたなら、話は別だったかもしれない。本田圭佑のパフォーマンスは、この3年間で着実に衰弱して劣化していた。CSKAモスクワでの激戦で右膝の半月板を損傷し、左足首を負傷し、度重なるケガで俊敏な足さばきを失い、4年前の南ア大会時の姿とは別人になり果てていた。本田圭祐は、だからこそ、独裁者としてチームを統制し、自分主導のチーム体制を強化し、自分のところにパスを出させ、自分中心の組み立てで試合運びする必要があったのだ。能力が衰えたからこそ、それを隠すため、チームを無理に引き締め、自分が点を取る機会を増やさせ、得点する姿を電通に証明し、日本のファンにアピールする必要があったのである。そして、ザッケローニはそれに協力した。
このような愚劣で醜悪なサッカー日本代表の姿は見たことがない。ブラジルW杯の直前、日本代表はフロリダに行く前に指宿でキャンプを組んだ。4泊5日の強化合宿は、5/21に始まって5/25に打ち上げているが、本田圭佑が指宿入りしたのは5/23で、練習に参加したのは最後の2日間だけだった。王様の特別待遇である。それから、フロリダの合宿では、大会前の現在の心境を聞かれた6/8のインタビューに対して、「何時に寝るか、何を食べるか、誰と話すか、何を話すか、それらの一つ一つを大切にしたい」などと、呆れた勘違いの答えを返していた。咄嗟に思いついた回答だったに違いないが、本田圭佑の無能と矮小な自己中心性を如実に示す光景だった。この映像は全国のニュースで流れるもので、日本の国民が注目して見ている。記者は本田圭佑のメッセージを撮ろうとした。当然、ここで吐く言葉は、日本代表を応援する日本国民の心を一つにする、「銃後」をコンビンスさせる言葉でなくてはいけない。ドログバのような。普通は、そこで言う台詞は決まっている。4年間を振り返って、応援してくれた日本のファンに感謝を言わなくてはいけないし、代表になれなかった選手の無念を思わないといけないし、加えて、被災地から応援を受けた感動のエピソードを紹介するとか、そういう言葉を紡がなくてはいけない。リーダーを自認しているのなら、応援団を固める効果のある言葉を選ぶのが当たり前だ。それがあれば、国内は盛り上がっただろうし、GLで敗退しても本田圭佑を戦犯として責めることはなかっただろう。
電通からFIFAに400億円の放映権料が流れている。私は、このうちの相当の部分が電通にキックバックされているのではないかと推測する。そしておそらく、電通の幹部は本田圭佑と裏で結託していて、(1)電通、(2)本田圭佑と仲間、(3)ザッケローニ、(4)協会、の四者の癒着構造があるのだ。「仲間」というのは、香川真司や長友佑都ら欧州の名門クラブに属するCMタレントたちである。ネットの掲示板では、しきりに「スポンサー枠」という言葉が言われていて、本田圭佑がザッケローニに強要して代表の人事を決め、電通の指図どおりに代表の選考が決められていると批判されている。本田圭佑はオリンパスとNTTドコモとマクドナルド、長友佑都はマツダ、香川真司はソフトバンク、この2年ほど、彼らを起用したCMがやたら多く目についた。「スポンサー枠」の真偽は不明だが、今のサッカー日本代表がこれまでの中で最もカネまみれで、電通臭がプンプンするのは実感だ。彼らは、試合でケガをして能力を劣化させながら、等身大以上に実力を大きく見せ、それをマスコミに宣伝させて虚像を国民に刷り込むことに成功していた。マスコミと電通が撒く虚像の方に彼らは合わせ、ひたすら傲慢に振る舞っていたと言える。吐き気をもよおすのは、最近のイオンの本田圭佑が登場するCMで、「夢ノート」などと銘打って、本田圭佑が子どもたちに説教を垂れている。これほどの偽善があるだろうか。本来、子どもたちの教育上最もよくないのが、利己主義と出世欲と金銭欲でサッカー日本代表を支配し、スポーツを金儲けの動機で恣意的に引き回した本田圭佑の生きざまを神聖視することだ。
本田圭佑に感じるのは、新自由主義の人間に特有の毒々しい臭気である。調べると、本田圭佑の生い立ちは必ずしも恵まれたものではない。新自由主義の時代は、こういう慎みのない、サムライの理念型とは対極の、成り上がりのエゴイストがヒーローになって社会に君臨する傾向がある。人を踏みつけにし、人を犠牲にして自分の成功を掴み、人を道具にして出世の階梯を這い上がることを当然と考える梟雄が出て、そういうリバタリアニズムの物語が脚光を浴び称賛される。典型的なのは、ワタミの渡辺美樹であり、グッドウィルの折口雅博だ。本田圭佑の人間性は、まさにその同じ類型と範疇である。私は、苦労人のザッケローニはそういう思想とは無縁の知識人だと思っていた。どこかで転向している。2年前か、3年前か、どこかで電通マネーに溺れ、生き方を変え、本田圭佑と癒着した。長身でセットプレーで役に立つH.マイクがどうして代表に選ばれないのか、私は不審に思っていて、そうしたらマスコミの記事に、「チームの和を乱す」と書いていたので、本当にザッケローニがそんなことを言ったのかと疑っていた。どうやら、本田圭佑が嫌って排除したらしい。H.マイクが入ると、ボールが本田圭佑に集まらなくなり、活躍して目立つ機会を奪われてしまう。磯貝萌と中村憲剛を外したのも、おそらく本田圭佑の差し金だろう。「攻撃的なサッカー」だとか、「自分たちのサッカー」だとか、そんなものは何も完成もしていなかったし、4年間の積み重ねで出来上がったものではなかった。現実の日本代表は、この2年間、本田圭佑、長友佑都、香川ら主力のケガと不振で、どんどん能力を劣化させ、スピードを落としていただけだった。
「パスを繋ぐサッカー」というのは、何も本田圭佑中心の現行の日本サッカーのスタイルではない。それは、フィジカルで劣る日本人に宿命づけられた戦法で、永遠に追求するテーマである。日本代表のサッカーは、誰が監督になっても、常に「パスで繋ぐサッカー」であり、「攻守の切り替えのスピードで勝る機動的なサッカー」である。なでしこもそうだった今、ザッケローニが辞め、次の監督の名前が取り沙汰されている。私は、岡田武史がやるべきだと思う。岡田武史に本田圭佑を切ってもらいたい。そして、電通と距離を置いた日本代表に作り直してもらいたい。W杯の放映権料としてFIFAに入るカネは全部で2000億円、そのうち5分の1の400億円を電通が収めている。FIFAにとって電通(日本)はウハウハの金づるであり、アジア枠を減らして日本のW杯出場の可能性を窮屈にするなどということは絶対にしない。つまり、W杯の日本出場はFIFAの不文律であり、カネと交換の32分の1枠だ。だから、誰が監督をやっても日本は必ずW杯に出場できる。その上、日本のマスコミとファンにとって日本代表や監督は神様で、芸能アイドルであり、誰も絶対に文句を言わない。辛辣な批評はしない。欧州や中南米や中東やアフリカの諸国のチームのような、タフな環境ではない。天国だ。そして、何もしなくても、電通の言うことをきいていれば、黙って年収2億円が懐に入り、電通からFIFAのキックバックのおこぼれが回る。こんなに美味しい「代表監督」はない。だから、誰もが日本代表の監督になりたいのだ。W杯出場は保証されている。GLで0勝最下位の敗退でも非難されない。逆に拍手される。
電通が支配する日本のサッカーは、このままだと未来はないだろう。日本の青少年の教育にとっても、悪い影響を与えるだけだ。
批判をするのは簡単だが
批判以前のチーム力だっただけ...
- 事務局に通報しました。
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