
5858:故島野氏の野球人生
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suさん
2010年05月11日 23:33 visibility173
亡くなられた島野氏の野球人生をウイキペディアから引用しました。
明るい性格であったこと、マスコットのひどい中傷、大怪我など、いろいろあったことを知りませんでした。改めて故人のご冥福を祈りたいと思います。
アマチュア時代 [編集]
高校野球では神奈川の強豪、武相高校に進学し1967年と1968年の夏の甲子園に連続出場を果たしどちらも2回戦で敗退した(1967年は2戦目、1968年は初戦)。神奈川県大会の決勝では2年連続完封、1967年には甲子園でも1完封を記録している。
プロ選手時代 [編集]
1968年のドラフトでは読売ジャイアンツ(以下、巨人)から1位指名を受け入団。この時巨人から指名されなかった星野仙一が「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったとされる(星野はこの年中日ドラゴンズの1位指名で入団)。同年のドラフトにはやはり巨人指名が有力視されながら阪神タイガースから1位指名を受けた田淵幸一がいる。
巨人入団後は故障に悩み3年目の1971年にプロ初登板初勝利を飾ったが、その後は勝ち星に恵まれなかった。1976年に阪急ブレーブスに移籍したが在籍3年間で1軍登板はなく、1978年に現役を引退した。
マスコット [編集]
引退後1年間は打撃投手として球団に残ったが退団し、芦屋市で喫茶店を開いた。しかし1980年に球団マスコット「ブレービー」のマスコット人形(着ぐるみ)役のオファーを受けた。マスコット導入[1]に当たり酒席での明るさを覚えていた職員が、修が適役だと思い立ったためだった。最初は断るつもりだったがメジャーリーグ各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレスの「フェイマスチキン」をビデオ等で見て引き受ける決心をつけた。
人形劇団などで特訓し、1981年4月11日の阪急西宮球場でブレービーはデビューした。たちまち人気者となって、阪急電車のホームや車両先頭などにイラストが使われるようになった。ところが1年後、ある新聞が「ドラフト1位の島野、今はピエロ」という見出しの記事を掲載し、それ以来落ちぶれた姿を嘲るヤジが投げつけられるようになった。修は悩んだが、ある日球場近くの食堂でブレービーが楽しかったとしゃべる親子の会話を聞き迷いが吹っ切れた。以後、ファンに楽しんでもらえるようなパフォーマンスを演じ続け、広く愛されるようになった。
1989年には球団が阪急からオリックスに譲渡され(球団名はオリックス・ブレーブスに変更)、1991年には球団愛称がブルーウェーブへ変更された事でマスコットもブレービーから「ネッピー」となったが新しい本拠地のグリーンスタジアム神戸でも引き続きマスコットの中に入った。1996年6月15日、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1000試合出場を達成しイチローから祝辞を受けている。
スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で体重が2〜3キロ減ることもあったという。また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、中でも1993年7月21日に神戸で初のオールスター戦が行われた際、バギーカーを運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し肋骨を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返りも打てないほどであったが後半戦ではコルセットを3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた[2]。
身体の動きが悪くなったため1998年シーズン終了で引退するまでの1175試合を1試合も欠かさずに演じるなど、日本のマスコットキャラクター演技者の草分けとなった。その存在は、現在も他球団のマスコット担当者から「島野さんのネッピーのようになりたい」と崇められるほどである。引退時に純パの会からその功績を称えられ、純パ賞を与えられた。
その後もオリックス球団職員として勤務し野球教室やコミュニティー活動などを担当していたが、2004年3月31日に病気療養のため退職した。
2010年5月8日、脳出血のため西宮市内の病院で死去[3]。
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- 事務局に通報しました。
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